【富士山】はなぜ【フジサン】と呼ばれるようになったのか~古代人がフジという名に込めた思い~

【富士山】はなぜ【フジサン】と呼ばれるようになったのか~古代人がフジという名に込めた思い~

世界遺産にも選ばれた霊峰・富士

静岡県と山梨県の県境にそびえる富士山。
標高3776mをほこる日本の最高峰であり、古代より私たち日本人が畏敬の念をいだいてきた霊峰でもあります。

三保の松原と富士山

2013年に富士山は三保の松原とともに、ユネスコの世界文化遺産に選ばれました。

「世界自然遺産」と勘違いされている人も多いようですが、富士山が選ばれたのは「世界文化遺産」です。

ユネスコによる文化遺産登録時の正式名称は「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」です。
富士山は古来より信仰の対象とされていました。また万葉集に歌われたり、葛飾北斎などの芸術家によって作品の題材にされたりもしてきました。
富士山は日本人にとって文化的意義もたいへんある存在なのです。

長い歴史のなか、私たち日本人が富士山という大いなる存在にたいして抱いてきた思いが、文化遺産として評価されたのです。

富嶽三十六景 神奈川沖浪裏 葛飾北斎

しかし、私たちは身近なはずの富士山のことをあまり知りません。
そこで今回は古代史に登場する富士山の姿から、富士という名前の由来や古代人の富士にたいする思いなどをひも解いていきます。

なぜ「富士」と表記されるようになったのか

富士はなぜ富士と呼ばれているのでしょうか。
「富士山」という表記がはじめて登場するのは、平安時代初期に書かれた『続日本紀(しょくにほんぎ)』です。

『続日本紀』は国の正式な歴史書です。
つまり平安時代にはすでに「富士山」という表記が公式のものとして通用していたのです。

都良香

おなじく平安時代に都良香(みやこのよしか)という官人によって著わされた『富士山記(ふじさんのき)』という書物があります。
そこには富士山の名前の由来が書かれています。
それによると、山の名前は郡の名前からつけられた、というのです。

当時、富士山があるあたりは、駿河国(するがのくに)富士郡と呼ばれていました。
富士山の富士は、富士郡の富士からとられたということになります。

浮世絵に描かれた駿河国(富嶽三十六景・葛飾北斎)

昔からのその地域の呼ばれ方、また支配区分として名付けられた地域の名称を由来として、山や川に名前がつけられることはよくあります。
富士山も「駿河国富士郡」という地名から名付けられたということです。

ちなみに『富士山記』の描写の細かさから、作者の都良香は実際に富士山に登ったと考えられています。
平安時代の富士山頂の様子も書かれており、富士の歴史を知るうえで大変貴重な資料になっています。

富士山が登場する最も古い記録

奈良時代に朝廷が編纂を命じたものに『風土記』があります。
『風土記』は、日本各地の歴史や文化風土などを記したもので、国ごとに編纂されて、天皇に献上されました。

もともとは何十もの『風土記』が作られましたが、現在は写本として5つ残っているのみです。
もし『駿河国風土記』が現存していれば、そこに富士山の最古の記述が残っていたことでしょう。

しかし残念ながら『駿河国風土記』は存在しません。

常陸国風土記(江戸時代の写本)

そのかわり、現存する5つの風土記の1つ『常陸国風土記』に、最も古い富士山についての記述が見られます。
その記述では常陸国の山と駿河国の富士山が比較されているのですが、そこに富士山は「福慈岳」という言葉として登場するのです。
これが富士山の最も古い記録です。

なぜ「フジ」と発音するのか~フジの語源いろいろ~

富士山と書き「フジサン」と読みますが、そもそもなぜ「フジ」と呼ばれるようになったのでしょうか。

その語源については諸説あり、どれが正しいのかはっきりしていません。

和歌には、尽きることがないという意味の「不尽」や、二つと無い美しい山を意味する「不二」と書かれたりしています。
これらの表記は、時代がすすんでも使われ続けました。

江戸時代には歌川広重が「不二三十六景」という富士山を描いた浮世絵シリーズを発表しています。

ちなみに洋菓子の不二家もこの「不二」が由来になっています。

「不二家」の起源は1910年(明治43年)、創業者・藤井林右衛門(ふじいりんえもん)が横浜の元町に洋菓子店を開いたときにさかのぼります。
「不二家」の社名は彼の藤井姓にちなむと共に、日本のシンボル富士山を意識したといわれております。
「不二」の文字を当てたのは、不二の意味でもある「2つとない存在に」という、願いと気概の現れでもあります。
(不二家公式サイトより)

 

アイヌ語が由来だとする説もあります。
アイヌ語では、火そのものや火の山のことを「フンチ」や「プシ」などと呼んだりします。また火の女神を「カムイフチ」と呼んだりします。

古代日本語では長く美しい斜面を「フジ」と表現しましたが、それが由来とする説もあります。

また一部では、朝鮮語で火を意味する「プル」やマレー語で素晴らしいことを意味する「プシ」という言葉などが由来と考えている研究者もいます。

由来にかんする説はまだまだあります。
富士山をご神体とする浅間神社がありますが、そこに伝わる『浅間大神御伝記』によると、山頂に積もる雪をあらわす「班白(ふしろ)」や、器を伏せた状態をあらわす「フセ」などが由来であるというようなことが書かれています。

富士山本宮浅間大社

現代、私たちは富士山が噴火する姿をみたことはありません。しかし富士山は休火山ではなく活火山です。いつ噴火してもおかしくない山なのです。

歴史上もっとも古い富士山噴火の記録は天応元年(781年)だと『続日本紀』に記録されています。
一番最近の噴火は江戸時代、1707年の宝永噴火です。781年から1707年まで、十数回の富士山噴火が記録されています。

古代、火が出ることを火出(ホデ)と表現されていましたが、このホデが転化してフジと呼ばれるようになったという説もあります。

『竹取物語』に描かれた富士山の由来

日本人なら誰もが知っている昔話の『竹取物語』。
竹から生まれたかぐや姫が成長して月に帰って行く幻想譚ですが、この物語の最後に富士山が出てくるのをご存じでしょうか。
しかもそこには富士山がなぜ「フジ」と呼ばれるようになったのか、またなぜ「富士」と表記されるようになったのか、その由来が書かれているのです。

竹取物語絵巻より

物語のクライマックス、かぐや姫は帝の求婚をふりきって天人(月の使者)とともに月の都に帰って行こうとしていました。その別れのとき、天人から帝に不老不死の霊薬が与えられました。

しかし帝は、愛しいかぐや姫がいないこの世界で永遠の命を手に入れてもむなしいだけだ、と天人からもたらされた不老不死の霊薬を燃やしてしまいます。その燃やした場所が、この国で月の都に一番近い場所(つまり一番高い山)である富士山の火口だったのです。

不死の薬を燃やしたことで火口からは煙が永遠に出続けることになりました。そこから「不死の山」と言われるようになりました。

 

竹取絵本より

また、この不老不死の霊薬を燃やしにいくとき、数多くの帝の兵士がこの(不死の)山を登りました。
兵士が沢山登っているそのようすからこの山を「富士山」(士が富む山)と名付けられた、と『竹取物語』の物語は締めくくられています。

古代人にとって、富士山は神の宿る山でした。
万葉集でも畏敬の念をもってたくさんの富士山を称える歌がうたわれています。

また、大和国からずっと東にある甲斐国は、古代より不老不死の神仙の地であり、死者がよみがえる土地と考えられていました。
そのような甲斐国との境にそびえる霊峰富士は、「よみがえり」や「不死」の象徴として日本人に信仰されていったのです。

「フジ」という呼び名にも古代人のそういった思想が込められていたのです。

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