縄文人と弥生人~稲作文化とコメが古代日本人にもたらしたもの~

縄文人と弥生人~稲作文化とコメが古代日本人にもたらしたもの~
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わたしたち日本人にとって「米」はなくてはならないものです。
弥生時代に稲作文化が入って来て、狩猟採集の縄文時代は終わった、そう学校で教わったひとがほとんどかとおもいます。
たしかに稲作文化が入ってくることで、古代の日本に住む人々の様子は大きくかわりました。

稲作がはじまったことで、いったい何が変わったのでしょうか。
その変化が縄文人と弥生人はどうなってしまったのでしょうか。

今回は稲作が日本人にもたらした変化について考えていきます。

農耕もしていた縄文人

縄文人は、狩猟、採集、漁労などをおこない暮らしていた、その後、弥生人が朝鮮半島から渡ってきて、農耕文化をもたらした……教科書でそう習った人が多いとおもいます。
たしかに縄文人は狩猟採集などで自然の恵みを得ることで命を繋いでいました。

縄文時代の後期・晩期になると、西日本では寒冷化が進み、狩猟採取では充分な食料を確保できなくなってきたといわれています。
その不足を補うために、アワやキビなどの雑穀を栽培したようで、縄文時代後期・晩期の農耕の痕跡が見つかっています。

粟(アワ)

種を蒔いて食用の食物を育てる、いわゆる農耕は縄文時代にはすでに行われていました。

黍(キビ)

ただし、農耕で得る食物はあくまで狩猟採集で足りなかった分の補助程度だったと考えられます。

自然は人にとって厳しい存在です。
縄文の人々にとって、自然は恵みをもたせしてくれるけれど同時に非常に恐ろしいものでもありました。
そんな自然のなかで生きのびるため、人々は協力しあい助け合い、そしてありとあらゆる自然の神に祈りをささげました。

そうやって人々が暮らした縄文時代は大きな争いのない平和な時代だったといわれています。それが約一万年も続いたのです。

稲作文化が始まった場所

その状況が一変しました。
稲作文化が入って来たのです。

最も古い水田稲作は、九州北部、現在の福岡県・早良平野一帯で始まったとされています。

渡来人が北九州に上陸し、この地で日本で初めての水田稲作を始めた、と言われているのですが……。
水田稲作についても教科書では、朝鮮半島からの渡来人が水田稲作文化をもたらした、と習った人が多いとおもいます。

しかし、現在では、水田稲作は大陸(中国南部)や南方(東南アジア)などからもたらされたという説も有力です。
先進文化の流入がなんでもかんでも朝鮮半島を由来とする今までの学説は否定されることも多くなりました。

出典:寺沢薫「日本の歴史02」

力を合わせて日本列島にやってきた太古の人々

稲作文化はどこから来たのか、弥生人とは何者なのか……この問題については、いろいろな説があり、これが正解だと言う事ができません。
当時はまだ現在のような国や国境という概念もありませんでした。
また日本の沿岸部に住む人々は海洋民族でもありました。自由に海を渡っていたのです。朝鮮半島はもちろん、中国大陸にも行き来していました。

そもそもが、日本にやってきたはるか太古の人々の一部は、東南アジアの方から現在の台湾を経由して日本列島に渡ってきた人々です。
その人々が縄文人になり、やがて弥生人とも融合して現在の日本人になっていったのです。

手こぎのオールだけで海流を越えるのは至難の業だった

ちなみに、台湾から日本列島に渡るのは太古の人々にとって難しい苦難の道のりでした。
長けた航海術がないと、海流のせいで海の上をはるか遠くまで流されてしまうのです。日本列島はおろか沖縄諸島にも上陸できなかったのです。
太古の人々は命がけで力をあわせ、スピードもだせる特製の船を必死で漕ぎました。並外れた航海術もあったのでしょう。
とにかく新天地を求め、命がけの苦労のすえ日本列島にやってきたのです。
家族、そして仲間同士で力を合わせなければ出来ないことでした。
和をもって尊しとなす
古代から現代まで日本人の心に刻まれているこの和の精神には、太古に日本列島に渡ってきた人々の記憶が息づいているのかもしれません。

参考:古代ミステリー 日本人はどこから来た ~徹底再現!太古の大航海~

稲作で社会構造が大きく変わった

さて話題を稲作に戻しましょう。

稲作文化が始まることで大きく変わるものがあります。
それは、社会の仕組みです。
社会の構造が変わると、人々の心も変化していきます。
(人間の心が変化するから、社会が変化するわけではありません)

弥生時代の稲作

稲作を行うためには、組織的に運営された集落が必要になってきます。
また豊作を願うための祭祀も、その集落特有の仕方を共有しなければなりません。

稲作文化は、縄文時代とは比較にならない大きな組織、そして画一化された祈りの対象をもたらしたのです。
それによって人々の心も縄文人とは大きく変わりました。

稲作文化がもたらした支配と被支配

稲作がはじまり、組織が大きくなることで、支配者が誕生しました。
また祭祀をおこなうにあたり、神の声を聴く巫女という存在も力をもつようになっていきます。

人々は、土地に縛られるという生き方、支配し支配されるという関係を選んだのです。

縄文時代のように狩猟採取し、よりよい環境を求めて移動する、という生き方とは大きく変化しました。

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米なしでは生きられなくなった弥生人

まえに縄文時代の後期・晩期にも農耕が行われていたと書きました。
当時は、狩猟採取の不足分を補うために、農耕が行われていたと考えられています。
あくまで狩猟採取という手段に重きをおいているので、農耕の収穫が駄目でも、なんとか狩猟採取をがんばることで飢えをしのいでいたのです。

ところが、農耕に主軸を置いてしまうと、大変な事態が起こってしまうようになったのです。

たしかに、水田稲作によって人々は多くの糧を得ることができるようになりました。
縄文時代に比べ、弥生時代は人口も爆発的に増えていきました。
それは水田稲作がもたらしてくれた米という食べ物のたまものです。

しかし、人々は確実に「米」に依存するようになったのです。
狩猟採集より効率が良いとはいえ、米は決して安定して収穫できるものではないのです。
気候変動によって不作になる時期もありました。

一度でも不作にみまわれると、人々は一気に飢えてしまうようになったのです。
不作だったからと、縄文時代のように狩猟採集したところで、増えすぎた人口をまかなうことはできません。

ある集落で米が不作になったとしましょう。
その集落の支配者は悩みます。
「この収穫量だと、我が集落の人間が飢えてしまう」
そして、こう考えるのです。
「となりの集落を襲って、倉庫の米を奪ってしまおう」

米が備蓄された高床式倉庫

このように争いが起こっていったのではないでしょうか。
また稲作には多くの水が必要になってきます。
現代でも稲作で水争いが起こることがありますが、もちろん、古代にも水を巡る争いは勃発していました。

弥生時代の戦いの風景

もちろん、話し合いも行われたでしょうが、最終的には武力によって解決がなされたこともあったでしょう。

『魏志倭人伝』には卑弥呼が登場する前の時代に「倭国大乱」が長い間続いていた、と書かれています。
倭の中の国々が争いにあけくれていたこの時代は、気候変動が激しかったことがわかっています。

出典:朝日新聞

つまり、米の収穫もままならず、飢える人が多かった時代なのです。
その結果、争いが起こっていたのです。

縄文人はどこに消えた?

縄文時代の集落は家族単位や一族単位という小さなものでした。
獲物が穫れなくなったり、木の実が少なくなると、よりよい土地を求めて移動を繰り返していました。

それが弥生時代になると、
稲作がひろまり、集落もムラやクニという大きな単位になり、人々はその土地に縛られるようになりました。

弥生時代の集落

そして、その土地を支配する者があらわれ、その他おおぜいは支配される者になりました。
人々は個人の意思よりも、ムラやクニという集落の大いなる意思を尊重し、その意思に基づいて行動しなければならなくなりました。
農耕への従事はもちろんですが、戦争が起これば武器を持って参戦しなければなりません。
組織のなかで生きると言う事は、そういうことです。

弥生時代の戦いの装備

縄文時代から弥生時代への変化は、発掘された人骨をみても明らかです。
縄文時代の人骨は無傷なのに、弥生時代のものになると矢じりが刺さっていたり、骨に切り傷が残っていたり、頭蓋骨が割れていたり、という人間同士の殺し合いの痕跡が残る人骨が一気に現れるそうです。

弥生時代の武器

ところで、縄文人はどこに消えてしまったのでしょう。
弥生人と融合していったとも考えられますが、一部の縄文人は弥生人に追いやられていったといわれています。
日本が大和朝廷によって一つの国家になってもそれに従わず、南方や北方に追いやられていった人々がいました。
そんな朝廷にまつろわぬ人々に縄文人の血が色濃く残っていたと考えられています。いろいろな説がありますが、たとえばアイヌの人々がそうだともいわれています。
アイヌ人が縄文人に直接つがる民族かどうかはわかりません。しかし、彼らアイヌの儀式は弥生的な農耕民族のものとは異なり、縄文的な狩猟採集民族の特徴を色濃く受け継いでいることは間違いありません。

アイヌ民族

稲作によって、組織が大きくなり、安定した糧も得られるようになりました。人口も爆発的に増えていった。
しかし、不作になってしまうと……上に書いたように、人々は飢え、その結果、人間同士の争いが起こってしまうのです。
米に依存してしまったために起こった悲劇といえるでしょう。

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