『源氏物語』のなぞ~紫式部はなぜ大災害を描かなかったのか~

『源氏物語』のなぞ~紫式部はなぜ大災害を描かなかったのか~

日本は地震や台風、大雨などの自然災害が多い国です。
自然現象の発生メカニズムは、科学の発達とともにだいぶわかるようになってきました。
地震はまだ予知することができませんが、台風のよう気象現象はかなり高い精度で予測できるようになっています。
しかし、そんな知識のない古代の人々にとって、自然の猛威は神やの怒りや怨霊の祟りであり、何よりも怖ろしいものでした。

以前の記事で書いたように、平安時代の日本は1000年に1度の大地動乱期にあり、天変地異が頻発していたのです。

古代の大地震と1000年に一度の大地動乱

世界最古の隕石は日本に落ちた!? ~社会も大地も動乱に揺れた貞観年間~

そんな平安時代に書かれた代表的な書物が紫式部の『源氏物語』です。
『源氏物語』には当時の災害がどのように描かれているのか……。

今回は『源氏物語』と災害の謎に迫っていきます。

いにしえの書物に記録された災害

日本人は古代から大きな災害に遭い、それを乗り越えるということを何度もくりかえしてきました。
災害のようすは当時書かれた書物に記録されています。
古くは『古事記』や『日本書紀』に書かれていますし、平安時代よりあとの鎌倉時代に書かれた『宇治拾遺物語』や『方丈記』にも大きな地震の被害についての記載があります。

とくに鴨長明によって書かれた『方丈記』は日本初の災害文学ともいわれています。
鴨長明は京都の大火や飢饉、大地震など、さまざまな天変地異を経験、目撃しました。長明はその体験を『方丈記』のなかに克明に描写しています。
彼は災害を経験し、世の無常を悟るにいたりました。

鴨長明(菊池容斎画)

『源氏物語』にほとんど描かれていない災害

平安時代は貴族文化が爛熟しました。そのため、雅で平和な時代というイメージがつよいですが、実際は飢饉や疫病、地震や台風などの天変地異があいついで起こった激動の時代でした。
ところが、そんな激動の平安時代に書かれた書物にもかかわらず、『源氏物語』にはなぜか災害のエピソードがほとんど出てこないのです。

千年前に書かれた長編物語『源氏物語』

源氏物語は下級貴族出身の紫式部によって書かれました。成立は1008年(寛弘5年)とされています。
美しさと英知を備えた主人公である光源氏の恋愛遍歴を中心に、その栄光と没落、貴族たちの権力闘争などが54帖にわたって描かれています

恋の葛藤や人間の業、男と女の宿命など、描かれているテーマは深いです。
四季折々の風景の描写も細やかですし、歌や音楽や書、絵画など当時の芸術、さらに儒教や陰陽道のような学問など、当時の文化も描かれています。
物語として面白いだけでなく、平安時代の貴族社会を知るうえで重要な歴史史料でもあります。

『源氏物語』は世界最古の長編小説とされています。
しかもそこに描かれている人間ドラマは現代にも十分通用するものです。

『源氏物語』には災害のエピソードが主に4つしかない

光源氏の生涯、そして当時の社会を描いた『源氏物語』ですが、その長大な物語にかかわらず、災害のエピソードはとても少ないことで知られています。
災害は主に4つしかでてきません。

具体的には
第10帖「賢木」の巻
第12帖「須磨」の巻
第28帖「野分」の巻
第46帖「椎本」の巻

この4箇所に災害にかんするエピソードが登場するのですが、どれも暴風雨や雷などです。
地震のように大きな被害をもたらす災害は描かれていません。

54帖にもおよぶ長編物語でたった4つ、しかも平安時代には疫病や火災、地震などの天変地異がいくども起こっています

災害エピソードにはことかかないはずなのに、紫式部はなぜ、災害を描かなかったのでしょうか。

『源氏物語』に隠された震災の記憶

第12帖「須磨」の巻に注目してみましょう。

この巻は、光源氏が朧月夜との密会がばれ、都を追われてたどりついた須磨での日々を描いています。わびしい住まいで寂しい謹慎生活を送る光源氏でしたが、ある日、須磨一帯を暴風雨が襲います。この暴風雨は何日もつづきます。高潮も発生、波が御座所近くまで打ち寄せました。光源氏は恐怖におののきます。

この「須磨」の巻には地震の記憶が隠されているという説があります。

光源氏の屋敷は須磨の山手にありましたが、その高台まで高波がやってきています。たくさんの人々が高波にさらわれたという描写もあります。これは津波を示唆しているのではないかと考えられているのです。

また、このとき光源氏は須磨の海がいちめん光に満ちるのを目撃しています。地震前には発光現象が起こるといわれています。つまり、光源氏が目撃したこの不可思議な現象はこの地震発光なのではないかと考えられるのです。

歴史文献によると須磨では1596年に大地震があり、津波に襲われたことがわかっています。
最近では、津波こそ発生していませんが、1995年の阪神淡路大震災が記憶に新しいです。
神戸周辺は歴史的になんども地震が発生しているのです。それもそのはず、この地域は地震の原因となる活断層が複雑に走っているからです。

はるか古代から地震や津波に襲われた記憶が須磨の地にはあります。
紫式部地震は大きな地震を経験していなかったかもしれませんが、現在の神戸周辺に地震が起きやすいことはしられていたのではないでしょうか。そんな土地や人々の中に刻まれた地震の記憶をもとに「須磨」の巻の災害エピソードは書かれたのかもしれません。

とはいえ、紫式部は災害そのものを描こうとしたわけではないのです。
この「須磨」の巻を含め、他の3つの巻で描かれている災害は、あくまでストーリーを動かすためのきっかけ作りにすぎません。

災害が多かった平安時代ですが、紫式部が大地震などのような天変地異に遭遇したという記録はのこされていません。
紫式部が生まれる前には1000年に一度といわれる貞観地震が発生していますし、その後、何度も大きな地震はおこっています。
当時、日本列島は大変動の時代だったのです。

紫式部が生きた時代はその中にあって、ちょうど小康期だったのです。
周期的には紫式部の時代に起こるはずだった南海トラフ地震もおこっていません。
つまり、紫式部は大きな地震を経験していないのです。
それが『源氏物語』に災害がほとんど描かれていない理由の一つといえるでしょう。

紫式部が『源氏物語』で描きたかったもの

紫式部はその生涯で大地震のような天変地異を経験していないかもしれませんが、まったく災害を知らなかったわけではありません。
紫式部が生きた時代は、諸国に疫病が蔓延しました。また京の都では内裏が消失するほどの大火災が起こったりもしています。
干ばつも発生し、深刻な被害をもたらしたことがわかっています。様々な災害が起こっていたのです。

しかし、紫式部はそういった陰鬱なエピソードは『源氏物語』にほとんど描きませんでした。

『源氏物語』は光源氏の栄華の物語であり、彼に翻弄される女性の物語です。
紫式部は人生を謳歌する貴族たちの姿を描いたのです。
陰鬱な描写や災害に苦しめられる人々のエピソードは、絢爛豪華な貴族の物語にはふさわしくありません。

紫式部が描きたかったのは、恋をし、権力を求め、葛藤しながら命を燃やす男と女の姿……
貴族社会に生きる人間の、夢幻のごとくはかない人生模様だったのかもしれません。

紫式部(土佐光起画)

平安時代カテゴリの最新記事