三種の神器は、どこから来たのか?

平成25年に伊勢の遷宮が20年ぶりにおこなわれました。その翌年、天皇皇后両陛下が新しい伊勢神宮の外宮と内宮にご参拝されました。このときの様子をニュースで見たひとも多いのではないでしょうか。このとき話題になったのが、「剣璽動座(けんじどうざ)」です。

これは天皇が行幸(皇居を離れて外出)する際に、三種の神器のうち、剣(草薙剣―くさなぎのつるぎ―)と璽(八尺瓊勾玉―やさかにのまがたま―)を携行することです。
「剣璽動座」も20年ぶりに行われました。

当時のニュース映像です。

二人の侍従がそれぞれ黒いケースを運んでいる様子が映っています。
この中身が、剣と勾玉だと言われています。

古来より三種の神器を所有するということは、
天皇が天皇であることの証明とされてきました。

現代もその考えが引き継がれているのです。
ニュース映像で三種の神器が大切に運ばれる様子を見て、「今もそんなことが行われているんだ」と驚かれた方も多かったのではないでしょうか。

そもそも天皇家に伝わる三種の神器とは何なのでしょうか。
そして三種の神器にどんな意味があるのでしょうか。

本日はその謎に迫っていきます。

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三種の神器は、鏡と剣と玉

三種の神器の歴史は古く、神話時代にまでさかのぼります。
ニニギノミコトが天孫降臨する際に、天照大神から授けられた、鏡、剣、勾玉が三種の神器です。
それになぞらえられる三種の宝物を日本の歴代天皇は受け継いできました。

三種の神器は、天皇でさえも、実物を見たことがないとされています。
現在の日本には見たことがある人が誰もいないのです。

三種の神器のそれぞれのいわれを見ていきましょう。

八咫鏡(やたのかがみ)

日本神話で、天照大神が天岩戸に隠れた際、イシコリドメノミコトが作ったとされる鏡です。
天岩戸に隠れていた天照大神が、外の騒がしさに少し岩戸を開けたときに、この鏡で天照大神の姿を映し、その自身の姿に興味を持った天照大神を岩戸の外に誘い出したという伝説があります。

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)

八咫鏡と同じく、天照大神が天岩戸に隠れた際、タマノオヤノミコトが作ったとされる勾玉です。
天照大神を誘い出すとき、八咫鏡と一緒に榊の木にくくりつけられていたとされています。

草薙剣(くさなぎのつるぎ)

スサノオノミコトが出雲に降り立ったときに退治した八岐大蛇のしっぽから出てきた剣。もとは天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と呼ばれていました。
そのずっと後、ヤマトタケルノミコトが譲り受け、現在の静岡に行ったときに、野原で火にかけられ、この剣で草をなぐことで難を逃れました。このことがきっかけで、剣の名前は草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになりました。

天皇にとって必要不可欠な三種の神器

天皇には三種の神器が必要ということはいつ定められたのでしょうか。

鎌倉時代後期に書かれた『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』という書物があります。
公卿の北畠親房(きたばたけちかふさ)によって著された天皇に関する書ですが、
そこには

天皇は三種の神器を継承しなくてはならない

と記されています。

この書物が書かれたのは南北朝時代のことです。
つまり、京都の北朝と、吉野の南朝がそれぞれ正統を主張して対立していた時代です。

北畠は南朝側の人間でした。
さらに、三種の神器も南朝が保持していました。

『神皇正統記』は、南朝の正統を裏付けるために書かれた書物でした。

かつて神器は2つだった?

『日本書紀』によると、持統天皇が即位する際、

忌部宿禰色夫知(いんべのすくねしこぶち)が、天皇の証明となる剣と鏡を持統天皇に捧げた

と記されています。

つまり、『日本書紀』が記された8世紀前半までは、神器が剣と鏡の2つだった可能性があるのです。

勾玉は縄文時代から日本人が愛用していた服飾品でした。
古墳時代の有力者の遺跡からもたくさん出土しています。

そんな勾玉が、後に天皇の権威を象徴する神器の一つに加えられたのでしょう。

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三種の神器に込められた意味

三種の神器にはどのような意味があるのでしょうか。

一説によると、三種の神器は「三徳」をあらわしているといわれています。
三徳とは、人の上に立つものが身につけているべき「智・仁・勇」の三つの要素です。
三種の神器は、その三つの概念をシンボル化したもの……という説です。

しかし、これははたして本当なのでしょうか。

「三徳」は儒教の概念です。
儒教は古代よりずっとあと、中世以降に日本に入ってきた考えです。
三種の神器=智・仁・勇という考え方も、江戸時代に唱えられはじめた説で、当時、江戸幕府が推進していた儒教に、神道を内包していこうという考えが透けて見えます。
つまりこの説には真実味がないのです。

では、三種の神器がもつ本来の意味は何なのでしょう。

古代、権力者が支配者となるには、
信仰をあつめ、軍隊を動かし、経済を牛耳る、
この三つの要素が必要でした。

つまり、天皇は、神道という信仰の主宰者であり、軍隊の統率者であり、経済活動の最高責任者であったのです。

信仰・軍事・経済をシンボル化したものが三種の神器です。
天皇はこれらを統帥する存在で、三種の神器を継承することで、その力を代々受け継いでいくものと考えられていたのでしょう。

そもそも、古代には玉・剣・鏡の三つが有力者にとって支配の象徴と考えられていました。
天皇家に限らず、有力豪族の墳墓からこれら三つが発見された例は数多くあります。
特に大和政権が確立していく4、5世紀の豪族の古墳から玉・剣・鏡の三点セットがよく発見されています。

三種の神器はどこにあるのか?

三種の神器は、古来、大王がいる宮中に祀られていたとされています。
遷都や行幸のときには、常に大王と行動をともにしていたようです。

しかし、第十代の崇神(すじん)天皇のとき、八咫鏡と天叢雲剣は宮中から外に出されました。
そのかわり、宮中には八咫鏡と天叢雲剣の形代(かたしろ=複製品)を祀ることにしたのです。

本物は、各地を転々とした後、伊勢神宮に落ち着きます。

伊勢神宮・内宮

その後、伊勢神宮に祀られていた天叢雲剣は蝦夷征伐に向かうヤマトタケルノミコトに授けられることになります。
このとき、上に書いたようにヤマトタケルノミコトの危機を救ったことで草薙剣と名を改められました。
遠征の途中、ヤマトタケルノミコトは命を落とします。
このとき、尾張の国に剣はありましたが、草薙剣はこの地で祀られることになりました。
そのために創建されたのが熱田神宮です。

熱田神宮

本物の三種の神器はどこにあるのか、まとめると。

八尺瓊勾玉はずっと宮中にある。
八咫鏡は伊勢神宮にある。
草薙剣は熱田神宮にある。

ということになります。

『安徳天皇縁起絵図』

草薙剣は壇ノ浦の戦いで安徳天皇とともに海中に沈んだという平家物語の伝承があります。
また、平安時代には宮中に祀られていた八咫鏡が三度も火災に遭ったとも伝えられています。
これらは、本物ではなく形代だと考えられています。

しかし、三種の神器はずっと厳重に封印され、実物を見た人はいないとされています。
三種の神器は、その多くが謎に包まれているのです。

 

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