「万葉びと」もすがった恋の呪術とおまじない
万葉集には、おまじないや呪術にまつわる歌がたくさんあります。
それはとくに恋の歌に顕著です。
たとえば、恋する相手に逢いたくてたまらないという切実な気持ち。
それを和歌という形に詠(よ)み上げることで、古代の人々は、その歌に逢いたい人にあえるようになる呪力が備わると考えていました。
和歌というものは、もともと儀式などで詠まれた神聖なものです。
「詠む」ことは、もともと一字一字声をだして唱えることを意味しました。
古来より日本人は「言霊」を信じてきました。声を出して詠む歌には強力な言霊が宿ると考えたのでしょう。
そういう意味でも、歌は儀礼的なものと考えられていたのです。
片思いにもがくとき、遠くにいる恋人をおもうとき、恋人に会ったとき、その恋人と再び離ればなれになるとき……恋する男と女にはさまざまなシチュエーションがありますが、そのちょっとした節目ごとに歌が歌われました。
そこにはある種の儀礼的な意味があったのです。
恋する男女が離ればなれになる。それほどつらく悲しいことはありません。
しかも当時は男と女が簡単に逢ったりすることができなかった時代です。身分の違いなど、社会的な障害も今とは比べものにならないほど多かったことでしょう。
だからこそ、恋人同士にまき起こる一つ一つのシチュエーションを大事にし、一喜一憂した心の動きを歌に込めたのです。
古代の男女は、好きな人にどうしても逢いたいとき、どうしたのでしょうか。
万葉人の恋愛模様とは、どのようなものだったのでしょうか。
今回は、『万葉集』をひも解き、古人が和歌に詠んだ恋の呪術やおまじないをご紹介していきます。
眉がかゆいのは好きな人に逢えるシグナル
暇無(いとまな)く 人の眉根(まゆね)を
いたづらに 掻かしめつつも 逢はぬ妹かも
(大伴百代 万葉集巻四―五六二)(訳:わたしに眉をなんども掻かせて、あなたに逢える期待をさせておきながら、いっこうに逢うことはできないなあ)
これは大伴百代(おおとものももよ)が坂上郎女(さかのうえのいらつめ)をおもって詠んだ歌です。
ちなみに大伴百代は男性です。
いっけん意味のわからない歌ですよね、眉を掻いて好きな人に逢えない事を嘆いているだけの歌なのですから。
じつはこの「眉を掻く」というところに、呪術的な意味があるのです。
この時代、眉がかゆくなるのは恋人に会える前兆現象だという俗信がありました。
それがやがて「眉を掻く」という仕草が、恋人に逢えるおまじないになっていったのです。
おなじように、「くしゃみ」にも同じような意味がありました。
くしゃみは当時、「鼻ひ」といいました。
「鼻ひ」は「鼻ひつ」を略したもので、「ひつ」には濡れてびしょびしょになるという意味があります。つまり「鼻ひつ」とは鼻水がたれること。転じて、くしゃみそのものを意味するようになりました。
うち鼻ひ 鼻をそひつる 剣大刀
身に添ふ妹し 思ひけらしも
(万葉集巻十一―二六三七)(訳:くしゃみがでた、またくしゃみがでた。こう何度もくしゃみがでるということは、あの娘がわたしをおもっていてくれているに違いない)
現代では、くしゃみは誰かに噂されていると出るといわれますが、万葉集の時代には恋人におもわれているときや、恋人にあえる前兆だと考えられていたんですね。
こういった俗信の総集編のような歌もあります。
眉根掻き 鼻ひ紐解け 待つらむか 何時しか見むと 思へる我を
(万葉集巻十一―二四〇八)(訳:あなたはわたしに逢いたいとおもうあまり、眉を掻いて、くしゃみをして、さらに下紐まで解いて待ってくれているのではないでしょうか)
「下紐」とは下着の紐のことです。下着の紐が自然に解けることも恋人に逢える前兆現象だという俗信がありました。
女性ならばふつう好きな人に逢えるのならきれいに着飾ってお化粧もしっかりして、としそうなものです。
しかしこの歌では、眉を掻きむしり、くしゃみして鼻水をたらし、下着の紐も解けた、とんでもなくだらしない姿で恋人を待っています。
好きな男性に逢いたいあまり、藁をもつかむように俗信にすがるいじらしい女性の姿を詠んでいるんですね。
詠み手の男は、自信満々に相手の女性が、これほど自分にメロメロで激しく愛してくれてるんだぜ、と言っているわけですが、これはまじめに詠まれた歌ではありません。むしろ笑ってもらうことを想定したウケ狙いの歌だと考えられます。
「眉根掻き」や「鼻ひ」が詠まれる歌は、ご紹介した意外に万葉集にはたくさん登場します。
つまり、眉を掻いたり、くしゃみをしたりは万葉集の時代に流行したおまじないなのです。
当時は眉というのは今と同じように、お洒落の重要ポイントであり、現代以上に女性のセクシーさをアピールする部位でもありました。
そういったことが影響していたのかもしれませんね。
つらい恋を忘れるためのおまじない
楽しい恋には、つらい別れがつきものです。
つらい恋なんて早く忘れてしまいたい。
そうおもうのは現代人だけではありません。古代人ももちろん、私たちと同じように失恋で傷つき、つらい気持ちをはやく忘れたいとおもっていたのです。
そんな心情を表わした歌が万葉集にあります。
手に取るが からに忘ると 海人の言ひし 恋忘れ貝 言にしありけり
(万葉集巻七―一一九七)(訳:手にすればつらい恋もすぐに忘れられると海人〈あま〉が教えてくれた恋忘れ貝よ……しょせん言葉だけじゃないか)
「恋忘れ貝」という、「つらい恋も忘れさせてくれる貝」も役に立たないほど苦しい失恋の気持ちを詠んだ歌ですね。
この「恋忘れ貝」は二枚貝のことです。二枚貝は上下ぴったりと合わさる二枚の貝殻がそろって一つの貝になります。そこには男女がつがいになる願いがこめられています。失恋した相手のことは忘れ、つぎに出会えるであろう相性抜群の異性の登場を期待し、願ったものなのでしょう。
このぴったり合わさる二枚貝のように、わたしにぴったり合う異性と出会えるように、と。
また、つらい気持ちを忘れさせてくれるものに「忘れ草」というものもあります。
忘れ草 我が紐に付く 香具山の 古りにし里を 忘れむがため
(大伴旅人 万葉集巻三―三三四)(訳:わたしは忘れ草を腰紐につけてみたんだ。香具山の懐かしい里のことを忘れるために)
「忘れ草」は、身につけたり庭に植えたりすると、忘れたいことを忘れさせてくれると信じられていました。
この歌では、遠く離れたふるさとを忘れられるように忘れ草に願いを込めています。しかし本来、忘れ草は、男女の恋の苦しさを忘れさせてくれる効果があると考えられていたものです。
この歌では、ふるさとへの望郷の念が、離ればなれになった男女が恋い焦がれる恋情と同じようなもので、それくらいつらいものなんだ、という気持ちが込められています。
恋と同じで、遠く離れれば離れるほど、故郷へのおもいがつのるばかり。それはあまりにもつらい。だからいっそ故郷のことなんて忘れてしまいたい。そんな切実な気持ちが吐露されている歌なのです。
離ればなれでも、夢の中でなら逢える
あの人にどうしても逢いたい。
そうおもっても、遠く離れていては、すぐに逢うことはできません。
生身の肉体は恋する二人にとって、あまりにも不自由です。好きな人に会うために、空を飛ぶことも壁をすり抜けることもできないのですから。
でも、どうしても逢いたい……
そんなときはどうすればよいのでしょうか。
万葉集に、つぎのような相聞歌(そうもんか)があります。
相聞歌とは、恋人同士が詠み交わした恋の歌です。
〈男性から女性へ〉
我妹子に 恋ひてすべなみ 白たへの 袖返(そでかへ)ししは 夢に見えきや
(万葉集巻十一―二八一二)(訳:あなたへの思いがつのるばかりだ。わたしは袖を折り返して眠るよ。夢のなかであなたに逢うために)
〈女性から男性への返歌〉
我が背子が 袖返(そでかへ)す夜の 夢ならし まことも君に 逢ひたるごとし
(万葉集巻十一―二八一三)(訳:あなたが袖を折り返して眠った夜の夢だったのですね。夢の中であなたに逢うことができたのは)
生身の肉体は空も飛べず、壁もすりぬけられない。
でも肉体から離れた魂なら、空も飛べるし壁もたやすくすり抜けられる。魂なら時間も空間も関係ない。相手の夢の中に飛んで行けば、だれにも邪魔されずに二人っきりで会える。
これは、そんな願いをこめた「袖返し」の呪術について詠まれた歌です。
袖を折り返して眠ると、魂を飛ばして恋人の夢に入っていけるという俗信がありました。
男性が「袖折り」のおまじないをして寝たよ、と伝えると、それを受けて女性が、だから夢であなたと逢えたのね、と返す。
そこはもう恋する二人だけの世界です。
他人が入り込んだり、文句をつける余地はありません。
夢で逢うなんて、愛し合う二人だからこそなせるわざですからね。
古代人は本当に「恋のマジック」を信じていたのか?
万葉人の恋の呪術やおまじないをいつくか紹介してきました。
古代は現代よりもはるかに不思議なものが信じられていた時代です。
ということは当時の人々は、本当にこれらの「恋のマジック」を信じていたのでしょうか。
恋の俗信を詠んだつぎのような歌が万葉集にあります。
しきたへの 枕(まくら)動(とよ)みて 夜も寝ず 思ふ人には 後に逢はむもの
(万葉集巻十一―二五一五)(訳:枕が勝手に音を立てて動くので、夜も寝られない。これはきっと恋い焦がれているあなたに逢える前兆だ)
恋人になかなか逢えない男性が相手の女性に贈った歌です。
万葉集の時代には、枕が動いたり音をたてることも、好きな人に逢える前兆現象だという俗信がありました。
万葉人には、ほんとうにいろんな恋の俗信がありますね……。
さて、この歌を受けた女性は、どんな歌で返事をしたのでしょうか。
それがつぎの歌です。
しきたへの 枕は人に 言(こと)問へや その枕には 苔生(こけむ)しにたり
(巻十一―二五一六)(訳:枕が人に口をきくわけがないでしょ。きっとその枕には苔が生えているのよ)
男性がせっかくロマンティックな呪術に、恋する気持ちをたくして詠んだのに、女性はつれなく、そんなことあるわけないでしょ、と現実的でいじわるな返事です。
女性はきっと、いつも口ばっかりで、自分の事を待たせてばっかりの男性に、しびれをきらせたのでしょう。あなたの言う事なんて、信じないわ、とばかりに女性がすねて口をふくらませているさまが浮かびます。
当時の人々は、恋の呪術やおまじないを、本気で叶うものだと盲信していたわけではありません。
科学文明が発達した現在でも、小中学生が戯(たわむ)れに恋のおまじないをかけたりするじゃないですか。
たとえば、「消しゴムに好きなひとの名前を書いて全部使い切れば恋が叶う」だとか、「願いをこめたミサンガが自然にほどけたら願いが叶う」だとか。そんなたわいもないおまじないは今もたくさんあり、この瞬間もきっと誰かがどこかでそんなおまじないをかけているはずです。
万葉の時代と現代を比べると、食べ物や着る物、生活様式など、文化はすっかり様変わりしました。
でも、恋する気持ち、そして何かにすがってでも、そのおもいを叶えたいという切実さは、今も昔もかわりません。
今から千数百年も前に編纂された『万葉集』には、当時の文化風俗だけでなく、私たちと何らかわらない男と女の恋模様やその心情もしっかりと記録されているのです。
万葉集には、後世のひとに向けたこんな恋の歌も残されています。
我れゆ後 生まれむ人は 我がごとく 恋する道に あひこすなゆめ
(柿本人麻呂 万葉集巻十一-二三七五)(訳:私の後に生まれてくるひとよ。恋なんて絶対してはいけないよ。わたしのように、つらいおもいをするだけだから)
万葉集を代表する歌人の柿本人麻呂が詠んだ歌です。
よほどつらい失恋を経験したのでしょうか。
未来にむけたこんなシビアなメッセージも万葉集には載っているのです。昔も今も、人間の本質は変わりません。面白いですね。
『万葉集』の恋の歌をよむと、古代の人々が、「わたしたちもあなたたちと同じで、恋や人間関係に悩み苦しむような普通の人間だったんだよ」と苦笑する姿が浮かんでくるようです。