なぜ奈良が古代日本の中心地になったのか

なぜ奈良が古代日本の中心地になったのか

古都奈良……
古代遺物が数多く残っていますが京都の華やかさに比べると、どこか地味な印象がぬぐえません。

奈良には観光資源がたくさんあります。
ところが数年前まで、奈良の旅館・ホテルの客室数は全国最下位でした。
現在も少し順位を上げているとはいえ、奈良の順位は下の方、最下位争い組の中にいます。

近年、奈良の良さも見直されています。
観光地としても、これからもっと発展していくことでしょう。
奈良には京都に負けないくらい古代ポテンシャルがあるのですから。

さて今回は、
なぜ古代の奈良が日本の中心になれたのか、
そしてなぜ衰退してしまったのかについて考えていきます。

奇跡の都市、奈良

かつて奈良は日本の中心でした。
奈良盆地には、弥生時代の纏向(まきむく)遺跡があります。
邪馬台国大和説の根拠ともされる纏向遺跡ですが、実際に邪馬台国がそこにあり、卑弥呼がいたのかは判然としていません。
しかし、纏向が弥生時代から古墳時代にかけて日本の中心的な場所であったことは、出土品や遺構から判断して間違いありません。
その後の時代も奈良盆地には飛鳥京、藤原京、平城京と都が次々と築かれていきました。

そんな奈良は、「奇跡の都市」と言われることもあります。
奈良が日本の中心だった古代の遺物が失われることなく、数多く残されているからです。
大王や有力者たちが眠る古墳、世界最古の木造建築の法隆寺、正倉院には千数百年以上もの間、シルクロードを通って日本にやってきた宝物が盗掘されることなく保管され続けて来ました。

日本はずっと平和だったわけではありません。
貴族たちの権力闘争による内紛、南北朝、武士が台頭した100年以上にわたる戦乱の世、そして第二次世界大戦のアメリカ軍による空襲と、この小さな島国は戦いによって乱されていました。

それでも、奈良に眠る貴重な古代の遺物の数々が残されているのです。
古墳、遺跡、寺社仏閣、出土物や仏像など、
奈良にはいたるところに国宝や重要文化財があります。

千数百年もの歴史が保存された都市は世界的にも珍しく、
まさに奈良は奇跡の都市と呼ぶにふさわしい場所なのです。

そもそも、なぜ奈良に都がおかれるようになったのでしょうか。

奈良盆地にあった巨大な古代奈良湖

大昔、奈良盆地には周辺の山々から流れ込む水でできた巨大な古代奈良湖がありました。
やがて地形変動などによって古代奈良湖は消失していきますが、奈良が日本の中心になった古墳時代には、奈良盆地は湿地帯になっていました。

奈良盆地の地形図

奈良の縄文遺跡の多くは標高45m以上の少し標高が高い位置で見つかっています。
それが弥生時代になると、遺跡の見つかる標高がだんだんと下がっていくのです。
これは大昔の人々が住んでいた湖畔の水位が徐々に下がっていったことを意味しています。
かつて湖の底にあった土地は稲作に適した肥沃な大地にかわります。
そういった実りをもたらす大地が、弥生の稲作文化の発展を支えていたのです。

さて、なぜ古代の奈良が日本の中心になれたのか、
それは、古代奈良が湿地帯であったことが大きな要因だったのです。

奈良はシルクロードの終着点だった

「すべての道はローマに通ず」
という言葉があります。
道があるから文明は発展します。
江戸時代も、徳川幕府は東海道をはじめとした道を整備しました。

道があると様々な人が交流する。
物が行き交う、文化が混ざり合う。
その交流軸上に都市が発展していくのです。

古代の奈良盆地にも、ある道が通じていました。
しかもその道は壮大で世界的な道でした。
それはずばり、シルクロード。
シルクロードはユーラシア大陸の西と東をつなぐ古代の大交易路です。

なんと奈良盆地はそのシルクロードの終着点だったのです。
奈良は世界的な大いなる交流軸の上にあったのです。

古代シルクロードはユーラシア大陸で終わることなく、中国大陸から東シナ海を船でわたり、日本まで繋がっていました。
古代の大陸から船でやってきた人々は、一部は日本海側の出雲や現在の福井あたりに行った人もいました。

しかし他方、その多くは、九州にたどりつき、さらに瀬戸内海を東へと進んできました。

しかし瀬戸内海沿岸は海岸近くまで山が迫っていました。なかなか文明を築けるほど開けた土地はなかったのです。
瀬戸内海の終着点は現在の大阪の上町台地です。いまよりもずっと海岸線は奥にありました。
現在も大阪には難波や浪波という地名が残っている通り、上町大地あたりは波が荒く簡単に上陸できませんでした。

  
(大阪湾環境データベースより)

そこで、半島になったいる上町台地を回り込み、河内のほうに入って行ったのです。
河内湾は穏やかでした。そこには淀川が流れ込んでいましたが、当時の淀川は大きく荒々しく、さかのぼるのは困難でした。
淀川のもっと南側、現在の柏原市あたりには大和川が流れ込んでいました。

(大阪湾環境データベースより)

大和川は、淀川に比べると小さい川でしたが、その流れはずっと穏やかだったのです。
古代の人々は、小舟に乗り換え、大和川をさかのぼっていきました。
そしてたどり着いたのが奈良盆地です。

奈良盆地は広大な盆地でした。さらに湿地帯であったため、湿地水面を使えば奈良盆地のどこへでも簡単に移動することができたのです。
古代の人々にとって、奈良盆地は広大で肥沃な土地もあり、しかも交通の便も良い、都を築くにはこの上ない土地だったのです。

 

奈良、1000年の眠りにつく……

かくして奈良は世界の交易路であるシルクロードの終着点になったのです。
奈良には世界中から文明が届きました。
その影響を受け、奈良には飛鳥京、藤原京、平城京と、いくつもの都がつくられました。
日本で初めての文明的で本格的な都市は奈良につくられたのです。

しかし、時代が進むと、奈良の都は捨てられてしまいます。
かわって都がおかれたのは京都でした。

交流の道も、大和川から淀川に移ってしまいました。
山に囲まれた奈良は、どんづまりの土地でした。都がおかれ、シルクロードの終着点だったからこそ繁栄できた都市でした。
京都に都が移され、交易軸から外れてしまった今、奈良は都市として衰退していくほかなかったのです。

かくして、奈良は1000年の眠りにつくことになるのです。
数多くの古代遺物とともに……。

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