熊野は日本を代表する聖地です。
2004年に熊野古道が世界遺産に登録され、国内外の注目をあつめました。
熊野は古くから日本人に信仰されてきた聖域でしたが、平安時代中頃から鎌倉時代にかけて歴代上皇が足しげくかよったことでも知られています。その数なんと延べ約100回。長く険しい道のりを徒歩で行くしかなかった時代に、これは驚くべき数字です。
ちなみに皇族が熊野を詣でることを熊野御幸といいます。
中世以降になると熊野信仰は庶民のあいだにもひろまり、「伊勢へ七度、熊野へ三度」といわれるほどでした。
なぜ熊野は人々の信仰をそんなにもあつめたのでしょうか。
また歴代上皇はなぜ足しげく熊野御幸したのでしょうか。
それは熊野が特別な土地だったからです。
今回は日本を代表する聖域〈熊野〉に秘められた秘密に迫っていきます。
黄泉の国と通じる「熊野」
日本神話では、熊野は黄泉の国の入口だと考えられています。
黄泉の国とは死者がいる世界、現世とは別の死後の世界のようなものです。
いわば異界です。
つまり古代人にとって熊野はこの世と異界との混沌とした堺目である土地だったのです。
日本神話では、出雲のオオナムヂ(のちの大国主命)が嫉妬した兄神たちの迫害から逃れて木の国(紀の国=和歌山)にやってくる。しかし、執拗に追いかけてきた兄神たちの手にかかり、オオナムヂは殺されてしまう。よみがえったオオナムヂは難を逃れるため根之堅洲國(黄泉の国と入り口を同じくするとされる異界)へ入っていく。というエピソードが描かれています。
しかしなぜ古代の人々は、熊野を死者の世界と通じる場所と考えたのでしょうか。
熊野がある紀州半島南部は、1000mから2000m級の山脈が走り、山が海岸線にまで達しているため平野が少なく、年間降水量が3000mm。
温暖多湿な気候のため、熊野は太古からずっと、木々がうっそうと生い茂った原始の森が広がる世界でした。
あまりにも厳しい自然環境で、人間がたやすく踏み入ることのできない秘境の地。そこは神々のいる場所だ、と古代の人々は考えたのです。
そもそも、熊野の「クマ」は「神」をあらわす言葉です。
すなわち熊野は〈神がいる秘境の地〉という意味の地名だったのです。
原始自然崇拝からうまれた熊野大社
熊野には森の木々や川、そして岩山など、圧倒的な自然の世界があります。
太古の人々は、そういった自然に神の存在を感じ、崇拝するようになったのです。
この自然崇拝から日本固有の信仰である神道がうまれました。
熊野大社は熊野三社ともいい、文字通り三つの大社があります。
その三社とは『熊野本宮大社』、『熊野速玉大社』そして『熊野那智大社』です。
本宮大社の創建は約2000年前、10代崇神天皇の時代だと伝えられています。本宮大社の主祭神は樹木を支配する神でした。これが紀の国(木の国)の由来だとされています。
また速玉大社は岩を崇拝し、那智大社は滝を崇拝しています。那智大社は那智の滝で有名ですね。この那智の滝こそが那智大社のご神体です。
このように熊野三社は、もともとはそこにあった木や岩や滝を神が宿る依代として祀っていました。奈良時代になるとその場所が3つの神社として整えられるようになります。さらに平安時代の中頃になると、3つの神社が互いの結びつきを強めるようになりました。
また時代が進むにつれて仏教や修験道の影響も受けるようになり、神とは仏が姿を変えて現れたものである、という新たな考えも広まりました。これを権現といい、熊野大社の神は熊野権現と呼ばれるようになりました。
この神仏一体の考えから、本宮大社、速玉大社、那智大社(那智大社に隣接する青岸渡寺と補陀洛山寺も)あわせて、熊野三山とよばれるようになり、熊野一帯が霊験あらたかな聖地として人々の信仰をさらにあつめるようになったのです。
熊野はもともと修行の場として修験者たちの手によってひらかれていった聖地ですが、人があまり踏み入れない自然世界の奥深くに祀られた神社が世俗にも知られるようになり、やがて信仰をあつめて、多くの人々が参詣にくるようになったのです。
ちなみに、熊野三山は過去・現在・未来すべてに御利益があると考えられてきました。
三つの大社で崇拝されている仏には、次のような御利益の由来があります。
本宮大社は阿弥陀如来で、来世の加護を約束してくれる。
速玉大社は薬師如来で、現世の苦しみを取り去ってくれる。
那智大社は千手観音で、前世の罪を消し去ってくれる。
熊野三山には強力な神と仏のパワーが集まっているのです。
上皇・法皇の熊野御幸
熊野は歴代上皇が100回ちかくもかよった聖地です。
ちなみに上皇というのは天皇が位を退いたあとの呼び方です。上皇が出家をすると法皇と呼ばれます。
皇族ではじめて熊野を詣でたのは宇多法皇です。今から1100年以上も前の西暦907年のことです。
その後、上皇が実質的な権力をにぎった院政の時代が到来します。この時代は天皇ではなく上皇が権勢をほしいままにしました。
熊野御幸は、はじめて院政をしいた白河上皇が12回、鳥羽上皇が23回、後白河法皇が34回、さらに鎌倉時代に入って後鳥羽上皇が28回と、130年間で97回もおこなわれています。
熊野御行はたいへんな行事でした。
上皇がいた京都から熊野へは往復600km、行って帰ってくるまで当時は約1カ月かかりました。上皇に同行する人数も数百人規模です。なかでも、白河法皇がおこなった1118年の熊野御幸は814人もの大所帯だったと伝わっています。
たった一度の御幸でも、いかに大変な大行事だったか。それが100回ちかくもおこなわれたわけです。当時の上皇の権力の強大さ、そして上皇たちの熊野信仰の深さに驚かされます。
なぜ上皇は熊野に詣でたのか
上皇達はなぜそんなにも熱心に熊野の神を信仰し、たいへんな思いをしながら何度も何度も熊野に通い詰めたのでしょうか。
その理由のひとつは、すでにご説明したとおり熊野が〈黄泉の国の入口〉つまり死者の世界と通じる場所だったからです。
当時、熊野は〈よみがえりの地〉と信じられていました。
熊野へ行き、黄泉の国へ足を踏み入れ、いちど死ぬことで魂が浄められる。そしてふたたび熊野から外の世界にでることで復活し、新たに再生をはたすという思想があったのです。
一度死に、そして生まれ変わる。この思想は古来より世界中の民族や宗教でおこなわれています。〈死と再生の儀式〉は世界共通といってもよいくらい、人類が古代より大切にしてきたイニシエーションの一つなのです。
自然界は常に死と再生を繰り返しています。古代の人々は、そんな自然界のようすを観察し、生命の真理に気づいたのでしょう。
さて、京の都から熊野への道中は大変過酷なものでした。
山道は険しく、困難の多い旅路でした。上皇であろうとも、自らの足で歩かなくてはなりません。
その険しい山道は修行の場でもありました。困難が大きければ大きいほど、それを乗り越えたとき、熊野の神の恩恵をより多く受けられると信じられていたのです。だから上皇たちはすすんで困難に立ち向かっていきました。より大きな神の祝福を受けるために。
上皇一行を道案内したのは熊野を修行の場とする修験者(山伏)たちでした。
かれら修験者が修行にふさわしい険しい道を先導し、また神への祈り方なども指導しました。
歌人の藤原定家が1201年(建仁元年)10月におこなわれた後鳥羽上皇の熊野御幸に随行しています。
定家はそのときのようすを『熊野御幸記』という旅行記のなかに詳細に記しています。そこには命がけで険しい熊野を山々を巡る上皇の厳しい修行のようすが克明に描かれています。
神武東征と熊野
上皇が熊野御幸をした理由は、よみがえり信仰だけではありませんでした。
もう一つの理由は、日本神話のあるエピソードに隠されています。
それは「神武東征」です。
神武東征とは、天孫族のイワレヒコ(のちの神武天皇)が九州の日向から奈良盆地にむけて進軍する説話です。
何年もかけ瀬戸内海にそって進軍してきたイワレヒコが、とうとう大阪から奈良盆地へ進もうとしたときのことです。イワレヒコは、奈良を支配する長髄彦の激しい反撃を受け、退却を余儀なくされてしまいました。この戦闘でイワレヒコの兄が矢の攻撃を食らい、その傷がもとで亡くなってしまいます。あまりにも大きな犠牲をはらった敗戦でした。
敗因は西側から奈良に攻め入ったこと、つまり、「日の神の子孫である自分が、日に向かって戦うことで、天の意思に逆らったためだ」と考えたイワレヒコは、船で紀伊半島を南下、熊野までまわり、そこから上陸し、山々を越えて、東側から、つまり昇る太陽を背にうけた状態で奈良に攻め入ろうと考えたのです。
さて、熊野に上陸したイワレヒコ一行は、土地神の毒気にやられ、一時的に気を失いますが、天の神の助けもあり、なんとかその危機を乗り越えます。
さらに熊野の峻険な山々に行く手を阻まれますが、八咫烏の導きで、無事なんとか奈良まで辿り着き、長髄彦もみごと打ち破ることに成功します。そして晴れて橿原の地でイワレヒコは初代天皇に即位することになるのです。
この神武のエピソードが意味することはつまり、
熊野の地が、天皇家にとって困難突破の象徴となった地でもあるということなのです。
上皇達はこの神武のエピソードにあやかるためにも、自ら熊野をめざしたのです。
上皇たちは、よみがえりの地で魂を浄化し、さらに熊野の土地にみなぎるパワーを手に入れて生まれ変わり、直面する困難を突破する力をもらおうとしていました。
神武天皇が熊野を経由することで見事、困難を乗り越え、長髄彦を打ち破ったように。
熊野御幸は、神話のなかにその由来があったのです。
上皇や貴族たちは、けっして物見遊山で熊野を訪れていたわけではなかったのです。
すべての人々にひらかれた平等の聖地〈熊野〉
上皇や貴族の熊野御幸の影響で、熊野信仰は庶民にもひろく知れ渡るようになりました。
鎌倉時代に入ると、熊野に集まった参詣者がまるで蟻が列をなすような状態だったことから「蟻の熊野詣」と表現されるほどの賑わいをみせます。
しかしなぜ熊野がこれほどまで庶民の人気を集めたのか。
そこにも大きな秘密があります。
聖地というのは何かと制約がある場所です。たとえば高野山はかつて女人禁制でした。長い間女性が入山することができなかったのです。
厳しいしきたりなどもあり、なかなか立ち入ることができないのが聖地です。
しかし熊野にはそんな制約はありませんでした。
男であろうが女であろうが、身分が高かろうが低かろうが、清らかな者だろうが穢れた者だろうが、熊野の神はそんなものは関係なく平等に受け入れてくれたのです。
熊野の神は厳しさと寛大さをあわせもっていたのです。まさに大自然そのものですね。
自然は時に厳しいが、恵みももたらしてくれる。自然は、人間を地位や身分で差別しない。
自然とは全ての人間にとって平等に、そしてあたりまえに存在するものです。
全ての人を受け入れる聖地。それこそが熊野の最大の魅力だったのです。そのため、たくさんの人々が救いを求めて熊野詣に導かれていきました。
室町時代から戦国時代にかけて、熊野は国内最大の霊場として栄えます。
しかし、江戸時代になると状況は一変。
紀州藩の宗教政策により、それまで熊野信仰の要になっていた修験者や時宗の念仏聖が抑圧されるようになります。そのせいで、熊野信仰の勢いは一気に衰えました。庶民のための熊野信仰の紹介役であり、熊野の案内役である修行者たちが抑圧されたのですから、衰退するのもあたりまえです。
さらに、明治元年の神仏分離令によって、結果的に神仏習合の熊野信仰も否定されることになり、参詣に訪れる人も極端に少なくなりました。
あんなに栄えた熊野は人々からすっかり忘れ去られる存在になってしまったのです。
世界遺産登録で一変した熊野古道
しかし、2004年の世界遺産登録で熊野の地は再び脚光を浴びることになります。
知る人ぞ知る聖地としてほそぼそと信仰をつないできた熊野。
そこに観光客が大挙しておしよせたのです。
苔むした熊野古道の映像が現代人の心に響きました。まるで時が止まったかのような風情が熊野にはあったのです。
しかし、長い時間をかけて苔が敷き詰められた熊野古道の石畳は、たくさんの観光客が訪れたせいで踏み荒らされ、その風情はまたたくまに失われていきました。
これからも守られ続ける熊野の神秘
しかし熊野の聖性は、その程度のことで無くなりません。
太古の昔から受け継がれ、熊野の人々が守ってきた大自然と信仰がそこにはあるからです。
熊野に行けば、だれでも自然のエネルギーや神聖なパワーを感じることができるでしょう。
老若男女、身分差、浄不浄関係なく全ての人を受け入れてきた熊野。
そこは生と死の世界の堺目、神と仏が混在する聖地であり、
太古の日本人が崇拝した厳しくも優しい自然がいまも残る秘境です。
神道の原点となり、日本人の精神性をはぐくんだ自然崇拝の世界観が今も熊野には残っているのです。
日本には古来より「天・地・人」という世界観があります。
天とは神、地とは自然、人とは私たち人間のことです。
これはすなわち、太陽の下において〈神〉と〈自然〉と〈人〉は血を分けた兄弟のようなものであるという思想です。
これは熊野本宮大社で大切にされている思想でもあります。
神も自然も人間も一体となって存在しているという古代日本人の縄文的世界観が、今も熊野にはあるのです。