昭和天皇の地方巡幸に秘められた呪術的意味~象徴天皇と祈りの旅

昭和天皇の地方巡幸に秘められた呪術的意味~象徴天皇と祈りの旅
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昭和天皇の地方巡幸

1945年に大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)が終結。その翌年の1946年から1954年にかけて、昭和天皇は日本全国を巡幸じゅんこうしました。ちょうど日本が敗戦の混乱から復興に向けて生まれ変わる時期にあたります。
昭和天皇の戦後巡幸は1946年の神奈川県をかわきりに1954年の北海道まで、沖縄を除く46都道府県でおこなわれました。
ちなみに、天皇が外出することを行幸(ぎょうこう、みゆき)といいますが、目的地が複数ある場合は巡幸とよばれます。

この巡幸は昭和天皇の強い願いから実現したもので、戦災者やその遺族を慰問し、戦後復興にはげむ国民を激励するためにおこなわれたものです。

昭和天皇は行く先々で国民によく話しかけました。「あっそう」という昭和天皇の口癖も話題になりました。着古した背広をまとい、使い古した中折れ帽をかぶった物静かで朴訥な人柄の天皇に、戦争を起こした悪しき最高権力者というイメージは重なりませんでした。多くの国民は、昭和天皇のリアルな姿を見て、やはり天皇と国民は一部の軍人や官僚にだまされて戦争させられていたのだ、と思ったことでしょう。

出典:象徴天皇の誕生-昭和天皇の巡幸記録-

各地で昭和天皇は熱狂的に迎えられました。民主主義国家における象徴天皇としての姿が、この巡幸をきっかけに形づくられていったといっても過言ではありません。

昭和天皇による戦後巡幸の目的は、「戦災者やその遺族の慰問と、戦後復興にはげむ国民を激励すること」だといいました。
しかし目的はそれだけではありません。
昭和天皇の地方巡幸には、呪術的な意味が秘められていたのです。

天皇とはいったいどのような存在なのか――そこに秘密の答えが隠されています。

大地を踏みしめ、土地を浄化する秘術

天皇はそもそも「まつりごと」をおこなう存在です。
まつりごととは、祭祀、つまり呪術をつかい祈ることです。
古代から天皇は祭祀をおこなってきました。それは現在にも受け継がれています。
天皇は今も、さまざまな儀式をおこない、神に祈りを捧げているのです。
天皇になるのも、法律や即位式で制度的に任命されてなるわけではありません。
大嘗祭だいじょうさいという儀式をおこない皇太子が「真の天皇」になるのです。大嘗祭は謎に包まれた儀式で、天皇になるときに一度だけおこなわれるものですが、そこでは霊的な力を呼び込み、皇太子が名実ともに天皇という存在にかわるのだといわれています。

さて、そのような祭祀をつかさどるマジカルな存在の天皇ですから、天皇の行幸にも呪術的意味があると古来より考えられてきました。

日本に古くから伝わるの儀式に「反閇へんばい」というものがあります。
これは陰陽師おんみょうじが呪文を唱えながら、千鳥足のような独特のステップで大地を踏みしめて歩くもので、その土地や方角の邪気をはらう作法です。
天皇や貴族が外出するさいには、かならずこの反閇による土地浄めがおこなわれたといいます。
この奇妙な舞踊のような歩き方は、のちに能や狂言のような芸能の所作にも取り入れられました。

反閇は別名「禹歩うほ」ともよばれます。
禹歩という言葉は古代中国の伝説に由来しています。
夏という王朝に禹という王がいました。禹王は、農業に適した土地にするため治水をおこない、さらに恵みをもたらす土地にするために中国全土を巡りました。あまりに歩き回ったため、比喩ではなく本当に足がすり減り、歩行するのも困難な体になってしまったといわれています。
禹は人徳があり、民にも尊敬された優れた王でした。

禹王

戦後の地方巡幸は、戦災者や遺族の慰問や復興に携わる国民の激励だけにとどまりません。
天皇が巡幸するということは「反閇・禹歩」という古代からの呪術的性質がともなっていると考えられます。
そこには全国各地の踏みしめた土地を恵みある場所にしたいという昭和天皇の切なる願いが込められているのです。

戦後あらたに制定された日本国憲法によって、天皇は「象徴」と定められました。
権力を剥奪され、たんなる象徴になったのです。
このような状況におかれたとき、天皇とは何なのか、日本という国、さらに日本国民にとって天皇はどのような存在であるべきなのか、一番悩み、天皇のあるべき姿を考えたのは、昭和天皇本人だったことでしょう。

マッカーサーと昭和天皇

江戸時代以前、武士が台頭した時代には確かに天皇の権力はないがしろにされていました。天皇が権威にすぎない時代が明治になるまで長く続きました。天皇は長らく形だけの存在だったのです。
しかし、実権をにぎらずとも武士の時代に権威が維持され続けていたのは、天皇が神とつながる呪術的な存在だったからです。

明治時代になって権力を取り返した天皇ですが、敗戦後GHQによってふたたび権力を奪われました。政治にタッチできなくなった天皇がいったい何をできるのか。
それはやはり民を思うこと、そして古来より受け継がれた呪術なのでしょう。
天皇とははるか昔からそのようなマジカルな存在でした。

古代から受け継がれた日本の天皇における帝王学の肝は、民を思い、神に祈ることにあるのではないでしょうか。
昭和天皇もそのことに気づいていたのかもしれません。

古代の禹王のごとく、国や民のためにその身をすり減らしてでも神事かみごとをおこなう。
昭和天皇は新たな時代のために、新たな国造りのために、そして「現人神あらひとがみ」から「人間」へと新たな天皇像をつくるために、全国巡幸という神事かみごとを実践したのかもしれません。

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昭和天皇が終生抱いた沖縄への思い

しかし、昭和天皇の思いは果たされませんでした。沖縄に行くことができなかったのです。
沖縄では米軍との戦闘で地形がかわるほどの攻撃を受け、また罪のないおおくの一般市民が犠牲になりました。日本軍は沖縄の人々を守るどころか、自決を促したりもしました。とてつのない悲劇が沖縄の地で繰り広げられたのです。
昭和天皇は崩御するまで沖縄への思いを持ち続けたそうですが、沖縄返還後も巡幸はついに叶うことはありませんでした。

戦闘で崩壊した首里城(出典:琉球新報)

祈りの旅――昭和天皇から思いを引き継いだ明仁天皇

昭和天皇の思いは子の明仁天皇に引き継がれました。
明仁天皇は在位5年目の1993年(平成5年)に沖縄行幸をおこない、昭和天皇の念願を果たしたのでした。

明仁天皇は皇太子時代に3度沖縄を訪れています。はじめて訪れたのは沖縄返還3年後の1975年。このとき事件が起きました。皇太子明仁親王が美智子妃とともに夫婦でひめゆりの塔に献花に訪れたときのことです。物陰から過激派が皇太子に向かって火炎瓶を投げつけたのです。幸い皇太子に当たることはありませんでした。過激派によって火炎瓶が投げられた瞬間、美智子妃が皇太子を守るためにとっさに手を差し出した姿は多くの国民の心を打ちました。

火炎瓶が投げられた直後の明仁親王と美智子妃――騒然とする現場(出典:毎日新聞)

このときの沖縄訪問では、デモが起こったり皇太子夫妻の車に空き瓶が投げつけられるなど、さまざまな事件がありました。
このときの訪問で皇太子明仁親王は「沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来へつなぐ」という談話を残しています。
明仁親王は沖縄を訪問するにあたって、「石くらい投げられてもいい」と語っていました。相当の覚悟で沖縄訪問に臨んでいたのです。

明仁天皇は2003年までに47都道府県すべての巡幸を達成しました。
それだけではありません。明仁天皇と美智子皇后の民を思い平和を愛する心は、もっと大きな広がりをみせていたのです。
雲仙・普賢岳の噴火や、阪神淡路大震災・東日本大震災などの大災害の爪痕が残る被災地にもかけつけ、靴を脱いで膝をつき、被災者と同じ目線で言葉を交わしたりしました。
またサイパンやパラオなど、たくさんの犠牲者を出した戦場の島々・悲劇の地にも慰霊に向かいました。

パラオ・ペリリュー島で拝礼する明仁天皇と美智子皇后(出典:SankeiBiz)

象徴天皇は何をすべきなのか。
民を思い、国のために祈ること、そして世界平和を願うこと――
昭和天皇の思いを引き継いだ明仁天皇と美智子皇后は、戦地や被災地を訪れました。
平成という時代を通じて歩み続けたのです。
それはいつしか「祈りの旅」と呼ばれるようになりました。

(出典:朝日新聞)

昭和から平成へと渡されたこのバトンは、令和の徳仁天皇にも引き継がれています。
その一歩一歩には、世界が少しでも良くなって欲しい、という天皇の平和への願いが込められているはずです。まさに呪術的な歩みなのです。

そんな「祈りの旅」はこれからも続いていくことでしょう。

(出典:Wall Street Journal)

民を思い、国のために祈る――
これこそが古代から受け継がれ、そしてたどりついた天皇のあるべき真の姿なのかもしれません。

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