同じような神話の書物が2つある不思議
『古事記』と『日本書紀』は、あわせて「記紀(きき)」とよばれています。
内容は、日本の誕生から、八百万(やおよろず)の神々が織りなす<神話>がまず描かれます。
つづいて、神の子孫である人間が登場し、
天照大神の血をひく天皇が日本を統治していくまでの<歴史>が描かれていきます。
『古事記』と『日本書紀』にはどちらも、神話と人間の歴史について書かれています。
ただ、「歴史が記されている」といっても、
そこに書かれている歴代天皇の歴史や業績については、
かなり神話的な脚色がされています。
しかしその中には、古代王権にまつわる真実の歴史ドラマが隠されていますし、
古代人の生活や信仰、かれらの世界観がありありと描かれています。
とにかく『古事記』と『日本書紀』があるおかげで、
わたしたちは古代の様子をよく知ることができるのです。
でも疑問に思いませんか。
『古事記』と『日本書紀』には重複する箇所や似たようなエピソードがたくさんあります。
なぜ同じような内容の書物が2つも作られたのでしょうか。
そこには大和政権にまつわる深いワケが隠されているのです……。
ということで、
今日は『古事記』と『日本書紀』の違いについて考えていきたいとおもいます。
じつは全然ちがう『古事記』と『日本書紀』
『古事記』と『日本書紀』はどちらも8世紀のはじめ頃、
ときの権力者であった天武天皇の命によって編纂が始められました。
ちがう天皇が編纂を命じたのならまだしも、
同じ時期に同じ天皇の命令によって編纂することになった書物……
じゃあなおさら、1つでよかったんじゃないの……
なぜわざわざ同じようなものを2つも作らせたの……?
ますます謎が深まりますね。
実は『古事記』と『日本書紀』は、似て非なるもの。
ぜんぜん違う性質をもつ書物だったのです。
まずは『古事記』と『日本書紀』の特徴をまとめた下の比較表をごらんください。
『古事記』と『日本書紀』の比較
|
古事記 |
日本書紀 |
作らせた人 |
天武天皇→元明天皇 |
天武天皇 |
編纂(へんさん)者 |
稗田阿礼が口述し、太安万侶が編纂 |
皇族や官僚たちが編纂、舎人親王が完成させる |
編纂期間 |
約4ヶ月(元明天皇の命で太安万侶が編纂をはじめてからの期間) |
約39年 |
成立年 |
712年 |
720年 |
巻数 |
上巻・中巻・下巻からなる全3巻 |
全30巻+系図1巻 |
あつかう時代 |
天地開闢(てんちかいびゃく)から推古天皇(第33代)まで |
天地開闢から持統天皇(第41代)まで |
表記 |
当時の大和言葉をもとにした独自の変体漢文 |
漢文 |
収録されている和歌の数 |
112首 |
128首 |
描かれている内容 |
天皇家の歴史 |
日本という国家の歴史 |
形式 |
物語的 |
編年体 |
神話が占める割合 |
全3巻中1巻(約33%)神話的要素が強い |
全30巻中2巻(約6%)歴史的要素が強い |
『古事記』は国内向け、『日本書紀』は海外向けだった
作らせたのは同じ天武天皇です。
しかし、編纂者も違いますし、できあがるまでの期間もかなり違います。
巻数にいたっては全3巻と全30巻、なんと10倍も違います。
『古事記』と『日本書紀』は作られた目的がちがいますので、もちろん書かれている内容も変わってきます。
作られた目的はなんだったのでしょうか。
『古事記』と『日本書紀』の違いを確認しながら、そのあたりを詳しく考えていきましょう。
王権を確実なものにした天武天皇
神話や伝わる歴史は地方や豪族によってばらばらでした。それを初めて一つのかたちにまとめようと考えたのは天武天皇です。
結果として『古事記』と『日本書紀』の2冊が編纂されることになりました。
天武天皇は日本を律令国家としてまとめ上げていったすごい天皇です。
7世紀から8世紀は日本が一つの国家として急速にまとまっていった時期でした。
『古事記』も『日本書紀』も国家として大切なこの時期に作られました。
つまり『古事記』も『日本書紀』も、
日本が一つの国としてまとまるために絶対必要なアイテムだったのです。
天武天皇は、天皇家による王権を確実なものとし、
日本を天皇を中心とした一つの国にするために記紀の編纂を命じたのでした。
『古事記』は天才と秀才が二人で一気にまとめあげた
太安万侶
「記紀」が編纂される以前にも、神々や英雄のエピソードや、天皇家の系譜が書かれた書物は存在していました。
『帝紀(ていき)』や『旧辞(きゅうじ)』という書物がそれにあたりますが、時代が経つにつれてその内容が書き換えられたりしていました。
天武天皇の時代になると本来の歴史が失われつつあったのです。
危機感を抱いた天武天皇が、『帝紀』や『旧辞』などのような古い書物を調べさせます。さらに、それらをすべて覚えるように命じました。
その重要な役を担ったのが、天才的な頭脳の持ち主でもあった稗田阿礼(ひえだのあれ)です。当時28歳の若者でした。
天武朝時代に『古事記』の編纂は達成できませんでした。しかし、のちの元明天皇のとき、稗田阿礼の覚えた内容をもとに太安万侶(おおのやすまろ)が再編纂し『古事記』を完成させるにいたりました。
稗田阿礼は舎人(天皇に仕え、雑用などをこなす役職)といわれていますが、女性の巫女だったいう説もある謎の多い人物です。
この稗田阿礼は天才的な頭脳をもっていました。見たり聞いたり読んだりしたものは瞬時に完璧に覚えてしまうという超人的な記憶力の持ち主だったのです。
稗田阿礼が覚えていた内容を口述し、太安万侶という当時最も優秀な学者が、それを一気に書きとって、まとめあげていきました。
その結果生まれたのが『古事記』です。
驚くべき事に『古事記』は、たった二人で、わずか4ヶ月という短い期間で書き上げられたそうです。
時間をかけて大人数の力で編纂された『日本書紀』
舎人親王『日本書紀』の成立過程は『古事記』とはまた大きく異なります。
天武天皇は、川島皇子(かわしまのみこ)をはじめ6人の皇族と、中臣大嶋(なかとみのおおじま)ら6人の官僚、あわせて12人に編纂を命じました。
天武天皇が亡くなってしまったので編纂作業が30年ほど中断されることになりましたが、その後、舎人親王(とねりのしんのう)が編纂作業を引き継ぎ、720年に『日本書紀』は完成しました。
完成までにじつに30年もの年月がかかったのです。しかも、編纂作業も『古事記』とはちがい、大人数で行われました。
この事実から、『日本書紀』の編纂作業は国家の威信をかけた一大プロジェクトであったことがわかりますね。
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大和の言葉で書かれた『古事記』と、世界共通言語で書かれた『日本書紀』
当時の人々は、日本語である大和言葉で話していました。
しかし、まだひらがなもカタカナも発明されていなかった当時、文字は中国から輸入した漢字を使っていたのです。
『古事記』は大和言葉で書かれているのですが、その表記には漢字を使用していました。
漢字の音だけを借りて、むりやり日本語の発音を文字として表記したのです。
もちろん当時の中国人はこれを読むことができません。
かたや『日本書紀』の方は、中国語そのままの漢文で書かれました。これなら中国人も読むことができました。
『古事記』と『日本書紀』は書かれた言語が違ったのです。
『古事記』は当時の日本語で書かれました。つまり、日本人向けに書かれた書物だということです。
一方『日本書紀』は漢文で書かれています。当時、東アジア圏の共通言語であった中国語。日本にとってそれは世界言語だったのです。現代の英語のような感覚ですね。
『日本書紀』を漢文で書いたということは、海外向けに、世界を意識して書かれた書物ということなのです。
エンターテインメント性ゆたかな『古事記』と、記録的な『日本書紀』
『古事記』の大きな特徴として物語性の豊かさがあげられます。
神々が泣き、笑い、怒り……感情をあらわにして躍動する物語は、現代人である私たちも魅了しています。
物語には勢いがあり、読む者をあきさせることはありません。
伝承や神話の面白さが、それほど多くない文字数の中にグッと凝縮されているのです。
稗田阿礼と太安万侶が短期間で編纂したということも影響しているのかもしれませんね。
『日本書紀』の方は、年代順に出来事が書かれている、いわゆる編年体です。
物語的な要素よりも記録的な比重が大きく、読んで面白い、というものではありません。
『古事記』のように一連の物語が展開していくという書き方はされていないのです。
『日本書紀』は、天皇家に伝わる書物や伝承はもちろん、地方の豪族に伝わる伝説や、中国や朝鮮の文献なども参照するなど、国内外の数多くの資料を用いて書かれています。
そのようにして集めた情報を集約して、歴史の記録としてまとめられているのが『日本書紀』なのです。
また『日本書紀』には「一書(いっしょ)に曰(いわ)く」という表記がよくでてきます。
数多くの資料があると、つじつまの合わなくなることもあります。そのようなときに、「一書に曰く」ということで別説を脚注のように引用表記しています。
このことからも『日本書紀』が記録性の高い書物であることがよくわかります。
『古事記』も『日本書紀』も神の世界と人間の世界について書いていますが、その分量にかなりの隔たりがあります。
物語性の強い『古事記』は天地開闢からはじまり、神々のドラマチックな物語をページ数を使ってじっくり描いているのですが、
『日本書紀』では神々の誕生のくだりはさらっとダイジェストのように通り過ぎてしまいます。
そのかわり歴代天皇の業績については『古事記』とは比較にならないほど詳細に記載されています。
また神代における世界観も『日本書紀』の方は中国思想、とくに陰陽論などの影響をつよく受けています。
たとえば、世界が生まれるまえの混沌を「陰陽の区別もつかない」というような表現にしたり、
最初に登場する神々が『古事記』では性別をもたない神なのに対し、
また『古事記』では印象的に描かれる「黄泉の国」も『日本書紀』では正式に採用していません。
『古事記』で有名なイザナキが死んでしまったイザナミを迎えに黄泉の国にいくエピソードも、
『日本書紀』では、一説としてさらっと触れられる程度です。
日本神話で有名なエピソードに「因幡の白ウサギ」などの大国主命(おおくにぬしのみこと)が大活躍する「出雲神話」があります。『古事記』に豊富に収録されているこの「出雲神話」も、『日本書紀』にはほとんど収録されていません。
記紀のちがいから見えてくるもの
『古事記』は神話の時代に重点をおいて物語が描かれています。
これはつまり、神からずっと繋がる「天皇家の歴史」を語っているということです。
それも日本語で国内向けに書かれています。
これらのことから『古事記』は、
天皇家の正当性を国内の人々に誇示する目的で作られた書物であることがわかります。
「天皇が神の子孫となり、権力者としての正当性を持つ。そのために神話は作られる」
これについては、前回、前々回のブログで書いたとおりです。
『日本書紀』は、歴史上の事実を列記していく編年体で書かれています。
また、言葉も当時のアジア共通言語であった中国語で書かれています。
さらに、中国の思想も取り入れて、『古事記』とはまた違う世界観で神の世界を描いたりしています。
『日本書紀』は中国の歴史書にならって編纂されているのです。
これは海外、とくに中国王朝を意識して作られた書物であることを意味します。
『日本書紀』は日本初の正史として編まれた書物です。
中国王朝に対し、日本も立派な国なんだ、と主張するために作られたものです。
『古事記』にはどのような意味があったのか?
それは日本国内における天皇家の権力者としての地位を正当化する意味があった、
ということは前にお伝えしたとおりです。
では、『日本書紀』で、中国王朝に対して「日本も正史がある立派な国なんだ」と主張することにどのような意味があったのでしょうか?
これには天武天皇時代の世界情勢、その中で日本という小さな国が生き残りをかけた国家戦略が大きく関わっているのですが……。