神話のなりたち~王権と物語~

神話のなりたち~王権と物語~

神話とは何か?

神話は神にかんする物語であり、この世界や宇宙、そして人類など、世の中のさまざまなものがどのようにできあがったのかを説明する物語です。

古代史を語る上で、神話を無視することはできません。

科学が発達した現代では、荒唐無稽な神話を信じる人は少ないですが、
古代の人々は神話の世界を信じ、その影響を受けて暮らしていました。
言い換えると、古代人は神という存在を現実的なものとして身近に感じながら生きていたのです。

世界中の様々な民族が独自の神話を語り継いでいます。
日本神話、中国神話、インド神話、アラビア神話、バビロニア神話、メソポタミア神話、ギリシャ神話、ローマ神話、ケルト神話、ゲルマン神話、北欧神話、エジプト神話、マヤ神話、アステカ神話、インカ神話、ハワイ神話、そして旧約聖書などなど、数え切れない神話が存在します。
8世紀に成立した『古事記』『日本書紀』が日本を代表する神話です。

神話の物語は幻想的であり、また大迫力なシーンもたくさんあります。
現代のSFやファンタジーなどの創作物も、古代に作られた神話の世界観が多大な影響を与えています。

壮大な物語を考え出した古代の人々の想像力には驚かされますね。
でも、ちょっと待って下さい。
神話は本当に単なる古代人の想像の産物なのでしょうか?

「神話=架空の物語」ではない ~伝説が歴史的事実に~

神話には現実に起こった歴史的な出来事、そして当時の人々の感情が封印されています。

19世紀以降、それまで伝説上の存在と思われていた遺構が次々と発見されています。

ドイツ人のシュリーマンはホメーロスの叙事詩『イーリアス』に描かれていた伝説のトロイア遺跡を発見しました。
イギリス人のラッフルズによるインドネシアのボロブドゥール遺跡の発見。
フランス人言語学者のシャンポリオンによるロゼッタストーンの解読。
イギリス人考古学者ハワード・カーターによるエジプトでのツタンカーメン王墓の発見。
中国でも殷王朝の遺跡や秦の始皇帝陵が発見され、二千年も前に司馬遷によって書かれた『史記』の内容が正しかったことを裏付けました。

 

もちろん神話に描かれていることすべてが事実ではありません、
しかし、神話には少なからず実際におこった出来事が封印されていることは間違いありません。

 

「神話=架空の出来事」とは言い切れないのです。

 

聖書に記録された人類の記憶

旧約聖書はユダヤ人のルーツを語る物語です。
アダムとエバ、カインとアベル、ノアの方舟、バベルの塔など、この世界のなりたちを描いた物語が『創世記』です。

旧約聖書『創世記』には、禁断の果実を口にしたアダムとエバがエデンの園から追放されたと書かれています。
エデンの園は「東の方」にあったと『創世記』に記述されています。
この「東の方」とはティグリス川・ユーフラテス川の下流域だと考えられています。
現在イランからクウェートにまたがるこの地域は、肥沃な大地として知られ、メソポタミア文明が発生した場所でもあります。
まさに楽園と呼ぶにふさわしい恵まれた土地だったのです。

 

さて、アダムとエバは初めての人類です。
エデンの園を追われて、全ての人類の祖先になったと聖書は言っています。
エデンの園はティグリス川・ユーフラテス川流域にありました。また、聖書の舞台となるのは東地中海沿岸部です。
アダムとエバは、地中海沿岸部へ向けて、東の方へと移動したことになります。
つまり聖書では、最初の人類は「東の方角からやってきた」と教えているのです。

 

しかし、わたしたち人類(ホモ・サピエンス)の起源はアフリカ大陸にあります。
聖書の舞台となっているのは東地中海地域ですが、アフリカ大陸はそのずっと南側にいちしています。
人類が東の方からやってくるはずがありません……。
やはり聖書に書かれていることは伝説にすぎないのでしょうか。

 

ところがです。

 

遺伝子解析を用いた最近の研究によると、アフリカで誕生した人類は、いったんアラビア半島に渡り、インドに到達、ユーラシア大陸の中心部にあたるインド北部の草原地帯まで移動していきました。そして、そこからユーラシア大陸を東西に拡散していったことがわかったのです。

 

つまり、東地中海地域を中心に考えると、人類は東の方角からやってきた。旧約聖書『創世記』の人類の起源についての記述は正しかったのです。
わたしたち人類の祖先の壮大な旅の記憶が、旧約聖書にはアダムとエバの物語として記録されているのかもしれません。

 

神話の物語にも歴史的な意味が必ずある

アダムとエバの子どもにカインとアベルという兄弟がいます。
兄のカインは農耕をおこない、弟のアベルは羊の放牧をしていました。

 

ある日、二人は神に捧げ物をすることになります。
カインは収穫した農作物を、アベルは子羊を神に捧げました。
ところが神はアベルの捧げ物に目を留めたのに、カインの捧げ物は無視したのです。

 

このことで、カインは弟のアベルに嫉妬し、恨みを抱きます。そして、ついにはアベルを殺害してしまったのです。聖書では、これを人類最初の殺人としています。

 

アベルの行方を神に問いつめられたカインは、「知りません」と答えます。
これを人類最初の嘘としています。

 

その後、カインはいくら耕作をしても農作物を収穫できないように呪いをかけられてしまいました。これはカインの子孫も同じです。カインの末裔は、誰かから食べ物をもらわないと生きていけなくなったのです。つまり他人に依存して生きて行かざるを得なくなった。乞食のような生き方をするように神に強いられてしまったのです。

 

そのような生き方をしていくうちに、カインの末裔たちから、芸術家や職人や牧畜家が登場するようになります。自ら食べ物を育てたり捕ったりという生きるために必要な行為をしなくなったかわりに、カインの末裔たちは多岐にわたる分野でプロフェッショナルな才能を伸ばしていったのです。そしてさまざまな産業を生み出していきます。このさまざまな産業における分業のおかげで、人類は互いに依存し合って生きていけるようになったのです。その結果生まれたのが、人類の<文明>です。

 

依存していれば楽に自由に生きられる。しかし人類が全員、楽な生き方を選んでしまってはうまくいくはずがありません。欲望に溺れ、社会の秩序やバランスが崩れれば、他人のために働く人、食料を供給する人などがいなくなり、人類は滅んでしまうかもしれません。

 

ほおっておいたら人間は堕落していくものです。そういった人類の愚かさは、旧約聖書『創世記』のノアの方舟などのエピソードで描かれています。堕落した人類は、正しい心を持つノア一家を残して、神に全滅させられてしまったのです。

 

人間の自由を制御するために神話は作られた

 

人間は放っておくと、欲望に溺れ、自ら滅びの道を進んでしまう存在です。
共に助け合って生きていける<文明>というものを作り出したのに、それを滅ぼすのも愚かな人間なのです。

 

人間は本質的に自由を求めます。
己の欲望の赴くまま生きていきたいのです。
しかし、それを許していては社会の秩序は乱れに乱れます。

 

そのような問題が起こらないように、人類は王のような権力者を生み出しました。王という存在がルールを作り、大多数の無知な人間の自由を制限し、社会に秩序を持たせたのです。

しかし自由を愛する人間は、そう簡単に他人の言うことをききません。
人間の自由を制限できるのは、神のような人間を超越した存在だけだからです。

そこで、王は自分に神の要素を内在させることにしました。
他の人間に言う事をいかせるためには、自分が神にならなければならなかったのです。
ここに神話が誕生することになりました。
「神」と「人間の王」との関係性を描いたのが神話なのです。
法学者であり明治天皇の玄孫としても知られる作家の竹田恒泰氏は、その著書の中で、「12,3歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」という歴史学者トインビーの言葉を引用しています。
しかしトインビーはこのような言葉を残していないようで、これはトインビーの他の言葉を竹田氏なりに意訳した言葉のようですが、その言葉自体にはとてもドキリとさせられる迫力があります。
たしかに神話をまとった権力者にとっては、自らの正当性を主張する神話を国民が信じなくなることは、「滅び」を意味することでしょう。
神話には作られた目的と込められた意味があるのです。
神話は、古代人の空想や妄想の産物でもありません。
当時の一番優秀な頭脳たちが、ああでもない、こうでもない、と悩み、考え、苦しみ、やっと作り出した物語です。
それはシンプルでありながら、時代をこえて千年、二千年と読み継がれる力強さ、物語としての強度をもっています。

日本神話も「天皇(大王)」が「神(天つ神)」の子孫であることを示し、
天から与えられた権力を持つことを正当化する目的で作られました。

次回は日本神話を代表する『古事記』『日本書紀』をひもといていきます。
古代人が日本神話に込めた思いとは何だったのでしょう。
そして浮かび上がる謎とは――

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