縄文文化の特徴といえば、みなさんは何を思い浮かべるでしょうか。
土器や土偶も縄文文化の大きな特徴ですね。
ほかにも忘れてはいけない特徴があります。
それは「農耕」の有無です。
いまのところ、農耕文化の広まりを一つの区分として縄文時代とその後の弥生時代がざっくりと分けられています。
縄文時代には大規模な農耕文化がありませんでした。
縄文人は農耕を知らなかったわけではありません。あえて農耕文化を受け入れなかったのです。それも1万年ものあいだ。
なぜ縄文人は農耕文化を受け入れなかったのでしょうか。
そこには縄文人の精神性が深く関わっていました。
そしてそんな縄文人の精神性が日本人にも多大な影響をあたえていたのです。
今回は日本人が受け継いだ縄文人の精神性に迫っていきましょう。
旧石器人が日本列島に定住して縄文人になるまで
独自の文化を築いた縄文人ですが、彼らはどのように日本列島にやってきたのでしょうか。
そして、なぜこの日本列島に定住する生き方を選んだのでしょうか。
旧石器時代、人々は移住生活をしながらマンモスなどの大型動物を追う生活をしていました。
1万5千年前に温暖化がはじまるまでは地球は寒冷期で海面も現在よりずっと低く、日本列島は大陸と地続きになっていました。
旧石器時代の人々は大型動物を追って地続きになった日本列島に移動してきたのです。
1万5千年前からはじまった温暖化は地球に急激な変化をもたらしました。海水面がいっきに130メートルも上昇したのです。このため、日本列島は大陸から切り離されてしまいます。
氷期にはほぼ陸続きだった対馬海峡も海面上昇で大きくひらき、そこに南からの暖流が流れ込みます。
黒潮や対馬海流など南から温かい海流が日本列島を包み込むように流れ、この影響で、日本列島は現代と同じ温暖で湿潤な気候に変化していきました。
大地や山々は緑で包まれ、いたるところに森林や河川ができていきました。さらに海流の流れが活発になったことで、多様な海洋生物が日本列島近海に集まるようになります。
このように、日本列島は動植物の天国ともいえる豊かな自然環境が形成されていったのです。
旧石器時代に主流だった食べ物を求めて動き回る遊動的な生活は、温暖な気候への変化とともに、狩猟・漁労・採集を生活基盤とする定住生活へと移行していきました。
これが縄文時代のはじまりです。縄文時代のはじまりは約1万6,500年前のことだといわれています。
定住がもたらす安全な暮らし
人々は定住することで安心を手に入れることができました。
縄文集落に暮らす人々は狩猟・採集などの労働を分業しておこなっていました。
男が狩猟などをおこない、女は採集をおこなうなど、身体能力にみあった合理的な分業体制のもとで生活していたと考えられています。若い夫婦が食料調達に出かけている間も、おじいさんやおばあさんが幼い子どもたちの面倒を集落内でみる、といった分業もあったことでしょう。
このように集落に住む老若男女が、それぞれできる範囲で無理をせず分業をおこなうことで、体力のない老人や子どもは安全な集落に残ることができるし、若者たちは子どもの心配をせず、食料の調達に出かけることもできるようになりました。
マンモスを追って移動生活をしていた旧石器時代と比べると、人々ははるかに安心して生きていくことができるようになったのです。
このような縄文集落は日本列島各地に出来ていきました。そして人口も増えていったのです。
農耕をしなかった縄文文化はおくれた文化だったのか?
縄文人の定住生活は、世界的に見てかなり独特なものです。
大陸では定住は農業とともにはじまりました。定住するための手段が農耕だったのです。
歴史の授業でも、農耕の始まり=定住、と教わった人も多いとおもいます。
日本で農耕がはじまったのは弥生時代からとされています。
弥生時代以前の縄文遺跡には農耕の痕跡はありません。
とはいえ、縄文人がまったく農耕をしなかったというわけではありません。縄文人が稲や粟などの植物を栽培していた証拠は見つかっているのですが、それは非常に小規模なもので、農耕というより家庭菜園レベルのものでした。農耕だけで集落の人々が生きていけるだけの収穫量は無かったのです。
縄文人は農業をせず、食べ物を獲りに行っては集落に戻ってくるという狩猟・漁労・採集の三本柱で定住生活をおくっていました。それも1万年以上もの長い期間です。
このため、農耕を受け入れて定住生活をはじめた大陸文化に比べて、原始的な食物調達しかしていなかった日本の縄文文化は遅れていると長らく考えられてきました。
なぜ縄文人は農業をしなかったのでしょうか。
大陸の人々と比べて縄文人は劣っていたからでしょうか。
いえ、そうではありません。
縄文人はあえて農耕を受け入れなかったのです。
なぜ縄文人が農耕定住をしなかったのか、その秘密は彼らの自然に対する思想にありました。
縄文人の定住は自然との共生が前提にあった
定住するには人々が安心して暮らせる集落が必要になります。それをムラと呼びます。
ムラは人間が自然の一部を切り開いて自分たちが住みやすいように作った人間の世界です。
ムラのまわりにはハラがあります。
ハラとは、原っぱのハラです。このハラは、自然そのもの。大自然の世界です。そこは森林や河川などがあり、自然の恵みがあふれている場所です。
縄文人は生きるために、ハラに自然の恵みを獲りに行っていたのです。
ハラのさらに向こうにはヤマがあります。
ヤマとは山のことです。ヤマは他の世界との境界線になっています。ヤマの外は未知の世界であり、生命の危険もあったので人々は簡単にそこに足を踏み入れることはしませんでした。
ムラ、ハラ、ヤマ。これが縄文人の世界でした。
ところが大陸の農耕定住文化は縄文人のものとは大きく違いました。
大陸の農耕文化の場合、ムラの外にはハラではなくノラがあったのです。ノラとは野良仕事のノラで、農耕地を表わす言葉です。
自然の世界であるハラを開墾してノラに変えるのです。
つまり農耕文化では自然の世界であるハラの存在を認めない。ハラはあくまでノラの候補地だと考えられたのです。
言い換えれば、農耕文化は、自然を征服し、ノラに変えていくという文化でもあるのです。
大自然と共に生きる~縄文人の精神性~
大陸の農耕文化は農地であるノラを必要としました、そのために自然の世界であるハラを開墾しました。しかしそれは簡単なことではありません。
そこに人間と自然との対立が生まれたのです。自然を征服するために人間は自然と闘わなければならなくなったのです。自然に打ち勝たなければ、農地であるノラを手に入れることができないのです。
このように自然を征服し、人間の思い通りになる土地を拡大していくことが文明と考えられたのです。
黄河文明もメソポタミア文明もインダス文明もナイル文明も全てこの考えにもとづい生み出され、発展していきました。
しかし、日本の縄文人は自然を征服しようなどとは考えませんでした。
農耕文化を受け入れるためにはノラが必要になります。そのためには恵みを与えてくれる大自然・ハラを破壊しなければならない。
縄文人は農地のための自然破壊を拒んだのです。縄文人には自然と対立しようなどとは考えなかった。あくまで自然と共存共生したかったのです。
日本人は縄文人の精神をうけついでいる
時代が進むにつれて縄文人たちも農耕文化を受け入れていくようになります。大陸からやってきた人々とも融合し、やがて弥生時代と呼ばれる時代に入っていきます。
農耕文化を受け入れることで、人々は農地にしばられるようになりました。
富が蓄積され、権力が誕生し、不作で飢饉になったり、そのためにムラとムラで争いが起こったりもするようになりました。
そしてなにより、人々は自然を征服するために自然と対立し、戦い続けなければならなくなったのです。
人間は自然がないと生きていけません。
世界には文明を発展させるために自然を破壊し、その結果、木や水などの自然の資源が枯渇し、文明自体が滅んだ例もたくさんあります。
これは古代だけの話ではありません。
現代も人間は自然を破壊し、そのしっぺ返しをくらっています。
人類は自分たちの過ちによる自然界からの報復に追い詰められているのです。
縄文人は自然を征服したところで、いつかちっぽけな存在でしかない人間は自然からしっぺ返しをくらうことをしっていたのかもしれません。
いや、そもそも縄文人には人間も自然の一部に過ぎないという考えだったのかもしれません。
だから人間の勝手な理由で自然を破壊することをよしとしなかったのかもしれません。
キリスト教やユダヤ教やイスラム教では、唯一絶対的な存在である神がいます。
まず何よりも最初に神がいたのです。その神が世界を作り、人間を作ったとされています。
しかし古代日本の考え方はまったく違います。
日本神話には「天地(あめつち)はじめのとき」とあるように、まずはじめに天と地という世界があったのです。その世界に神という存在が現れ出てきたのです。
日本人は、西欧のように神が世界を作ったなどとは考えなかったのです。あくまで自然というものが最初にあって、神ですらもその自然の一部だと考えていたのです。
縄文人はハラを大事にし、そこから自然の恵みをいただくという営みを1万年もつづけました。
そのような暮らしを通じて、縄文人はやがて自然と共感共鳴する能力を手にいれたのです。
共感共鳴する能力、といっても特殊能力ではありません。
木々のざわめき、川のせせらぎなどの自然の音から、縄文人はメッセージを聞いたのでしょう。
そして自然に畏怖の念を抱き、そこに神という存在を見いだしていったのです。
縄文人が1万年も守ってきたハラ(自然)との共存文化、その精神は現代の日本人の文化にも根付いています。
庭ひとつ見ても、欧米では人工的な庭を造るのに対し、日本では自然を取り入れ、そこに自然そのものを再現しようとします。
江戸時代に生まれた俳句にもその精神は息づいています。俳句には季語があり、自然を詠む。
五・七・五というたった17文字で詠まれた自然の姿に、日本人は感動を覚えるのです。
日本人は自然を感じることができる。何気ない自然の風景からメッセージを受け取ることができるのです。それは日本人が自然と共に生きてきた証です。
世界とは文明の成立の仕方が全く違った縄文人。
農耕ではなく、狩猟・漁労・採集という効率の悪い食料調達を1万年もの長い時間続けた縄文人は、決して文化的におくれていたわけではありません。
縄文人はあえて、自然の中で自然に逆らわずに生きるという暮らしを選んだのです。
そんな縄文人の豊かな精神性は私たち日本人の文化にも確実に刻まれているのです。
それは自然を敬い、自然を畏れ、そして自然を愛する心。
縄文時代に日本列島の気候は温暖になり、森林や河川など、豊かな自然がこの国に生まれました。
そして、春・夏・秋・冬という四季が生まれたのも縄文時代なのです。
私たち日本人は、豊かな自然に包まれて生きた縄文人のDNAをうけついでいるのです。