桓武天皇が恐れた鬼門から来る鬼の正体

桓武天皇が恐れた鬼門から来る鬼の正体

現代も信じられている鬼門

風水について詳しくなくても、鬼門という言葉はみなさん知っているのではないでしょうか。
鬼の門と書いて鬼門。その字が表わすとおり、良くないもの(鬼・悪霊・災い)が入ってくる方角です。
鬼門は北東、丑寅の方角をさします。

古代の平城京や平安京、近世の江戸などは北東の方角に寺社を置くことで鬼門を封じていると言われています。
現代も鬼門の方角にトイレがあると良くない、など家を建てるときに気にする人も多いようです。

そもそも鬼門とはなんなのでしょうか。
なぜ鬼門を封じなければならないのでしょうか。
風水師や占い師に訊いても「昔からそう決まっているから」「鬼門は鬼門だから」というだけで、論理的にその根拠について答えられる人はあまり多くありません。

はっきりしない鬼門の由来

北東の方角が鬼門とよばれるようになった理由は諸説あります。
主な説を2つご紹介しましょう。

北方民族説

時代は古代中国の秦の始皇帝の時代にまでさかのぼります。
始皇帝は、匈奴(きょうど)という北方民族の侵入に悩まされていました。
匈奴は秦からみて東北に位置するモンゴル高原にいた遊牧・騎馬民族です。
匈奴の侵入を防ぐために築かれたのが、かの有名な万里の長城です。

秦の始皇帝は東北から侵略してくる匈奴を、「北東から鬼がくる」と恐れていた。
だから北東を恐ろしいものがやって来る方角となった、という説。

『山海経(せんがいきょう)』説

『山海経』は、古代中国の戦国時代から秦・漢代にかけて書かれた中国最古の地理書です。
この『山海経』に、「東海の中に度蒴(どさく)山があり、その頂上に枝が三千里も広がった大きな桃の木が生えている。その枝のあいだの東北を鬼門といい、そこから多くの鬼(悪霊)が出入りしている」と書かれています。
この話が日本に伝わり、鬼門として定着したという説。

鬼門は、中国では一般的では無い?

このように鬼門という考え方は中国大陸から伝わったとされますが、本場中国では鬼門はあまり一般的ではありません。
中国の風水では北東の方角を鬼門とはしていない。

つまり、鬼門を信じているのは日本人だけなのです。

では日本人にとって鬼門とはなんなのでしょうか。

比叡山延暦寺は平安京の鬼門を守るために創建されたわけではない?

京都の平安京は、風水をもとに築かれた都というのは有名です。

風水の考え方で、四神に守られた四神相応の地に、
東に清き流れ→青龍
南に湿地→朱雀
西に大きな路→白虎
北に高い山→玄武
というものがあります。

平安京は、
東の青龍に鴨川、
西の白虎に山陰道
南の朱雀に巨椋池(現在は消滅)
北の玄武に船岡山
があてられています。

さらに、鬼門は比叡山の延暦寺によって守られている。
そう信じられています。

比叡山延暦寺は、
平安京の鬼門を封じるために作られた寺院である。
そう信じている人がたくさんいます。

しかし残念ながら比叡山延暦寺は、平安京の鬼門封じのために作られた寺院ではありません。

平安京が都に定められたのは794年です。
比叡山延暦寺はそれより前の、788年に創建されているのです。

長岡京を守った比叡山延暦寺

比叡山延暦寺が創建されたときの都は長岡京でした。
長岡京は、後に平安京も築くことになる桓武天皇によって、784年に平城京から遷都された都です。

長岡京が位置するのは平城京から北に40kmの地点です。
比叡山はこの長岡京からも北東の位置にあたります。つまり方角的には長岡京の鬼門に位置する。
鬼門から長岡京に侵入してくる鬼を比叡山延暦寺が封じ、都を守っている、そう考えることもできるのです。

では、延暦寺は長岡京の鬼門を封じるために作られた寺院なのでしょうか?

陰陽師が日本に鬼門を定着させた

鬼門が定着したのは平安時代になったからのことです。
みなさん安倍晴明はご存じかとおもいます。
安倍晴明は陰陽師です。陰陽師とは暦などを司る今で言う国家公務員で、彼らは陰陽道を信奉していました。

古代中国には、陰陽と五行という自然哲学思想がありました。
万物は陰と陽の2つの気からなりたっているという陰陽説。


自然界は木・火・土・金・水の五行からなりたっているという五行説。

陰陽道は、この陰陽五行説に風水や天文学、暦学、易学、そして儒教、さらに仏教や神道などの宗教の影響を受けつつ日本独自に発展させたものです。

そのため、日本の鬼門は古代中国でいう鬼門とは大きく違うものになりました。

陰陽師たちが、この陰陽道で方角の吉凶を占うとき、凶の方角を北東とし、
それを鬼門としたことで、日本では北東=鬼門という考えが定着していったのです。

この陰陽道の影響を大きく受けていたのが平安京でした。
平安京に住む天皇や貴族は、日々のちょっとした移動ですら、どの方角に進むべきか陰陽師に助言を求めていました。
目的地が凶の方角だと、わざわざ遠回りして目的地に行ったのです。これを方違え(かたたがえ)とよびます。

平安京には、陰陽師による様々な方角封じがほどこされていたのです。

新井白石が解き明かした鬼門の真実

鬼門を忌むことは江戸時代には一般化していました。
江戸城が作られた当初のことです。徳川家の菩提寺である寛永寺への参拝のために北東の方角に門を作りました。しかし、鬼門の方角に門をおくのは不吉だ、と問題になったのです。
徳川家康がこの門を「筋違橋門」と名付けることで、騒ぎは収まりましたが、これも当時の人々が鬼門を恐れていたエピソードの一つです。

京都御所では、鬼門にあたる北東の方角の塀に角ができないように、凹ませています。


上に書いた「方違え」もそうですが、名前を変えたり、方向をごまかしたりという子供だましな一時しのぎの方法で、鬼門をごまかそうとしていました。

門の名前を変えたり、方向をごまかしたりしても鬼門という本質が変わることはありません。
なぜこんな道理にあわないことを人々は信じているのでしょう。
そもそも、そんなことで防げる鬼門という忌むべきものを、なぜ恐れているのでしょう。

江戸時代に同じような疑問を抱いた学者がいました。
それが新井白石です。

新井白石は、江戸時代を代表する優秀な儒学者であり、幕政にも深く関わっていた人物です。
そんな白石が鬼門についてかいた研究書が『鬼門説』です。

白石は、『山海経』をはじめとした古代中国に書かれた書物はもちろん、日本国内で発展した陰陽道など、さまざまな鬼門に関する文献を調べ尽くしました

そして、

中国の風水師も日本の陰陽師も、鬼門に関して言っていることに矛盾がある。
それに、鬼門にかんする禁止事項を破ったとしても、少し病気にかかるぐらいでたいしたことは起こらない。
鬼門なんて、そんな深く気にすることはないのだ。
お釈迦様も、東西南北という方角の概念自体が無意味だと説いている。
つまり、北東の方角を忌むべきだという考え自体、無意味なのだ。
鬼門を封じるために大寺院を作らなければ恐ろしいことが起こる、などと恐れをあおって伽藍を作らせることは、お釈迦様の教えに背くことでもある。

と、鬼門を盲信する人たちをきつく断罪しているのです。

現代でも鬼門を忌む人はたくさんいます。
また、ことさら鬼門の恐ろしさを強調して、人を惑わす風水師や占い師もいます。

現代よりもさらにそういったことを恐れていたであろう江戸時代に、
新井白石は、「鬼門なんて迷信だ。気にする必要は無い」と宣言していたのです。

鬼門におかれた比叡山延暦寺の役割~桓武天皇が恐れた鬼の正体とは~

長岡京時代に比叡山延暦寺が創建されました。
長岡京にとって、北東、つまり鬼門の位置に作られた比叡山延暦寺ですが、
長岡京の時代にはまだ鬼門という考えは浸透していませんでした。
鬼門が恐れられるようになるのは、上に書いたとおり、陰陽道が発展する平安時代になってからです。

ではなぜ長岡京の北東に位置する比叡山に延暦寺がつくられたのでしょうか。

一説によると、
桓武天皇が長岡京の北東からくるあるモノを恐れ、それを防ぐために比叡山に延暦寺を作らせた、
それが、北東を恐れるという鬼門の思想になっていった、といわれています。

桓武天皇がおそれた北東からくるあるモノ、
それは天皇にまつろわぬ者たちです。

桓武天皇

畿内の東側はまだ朝廷の支配が完全におよんでいませんでした。
天皇に従わない人たちがまだたくさんいたのです。朝廷の人々は彼らを夷(えびす)と呼びました。
そんな蛮族がいつ攻め込んでくるかわかりません。

昔は、天皇に従わない豪族を鬼と表現していました。
まさに東から鬼がやってくることを桓武天皇は恐れていたのです。

長岡京が築かれたのは、桂川と宇治川、そして木曽川が合流する巨椋池のほとりでした。
長岡京の南側はもともと都があった奈良盆地で、安全が確保された地帯でした。
北から東にかけては丹波山地と比良山地があり、守りが堅い地形だったのです。

しかし、北東の方角に一箇所、東国と筒抜けになっている場所がありました。
それが逢坂峠です。

夷が攻めてくるときは逢坂峠を通るのは間違いありませんでした。
だから、桓武天皇は、夷の侵入口になるであろう逢坂峠をおそれ、鬼門としたのです。
そして逢坂峠を監視するために、逢坂峠のとなりにそびえる比叡山に延暦寺をおき、僧侶たちに監視させたのです。

敵を監視するためには、武力もそなえなければなりません。
延暦寺は、強力な武力も持つようになり、長岡京、そして平安京の守護者となっていったのです。

ちなみに初代の征夷大将軍である大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が任命されたのも桓武天皇が長岡京に遷都した年でした。
征夷大将軍はもちろん、東国にすむ夷を討伐するために作られた役職です。

朝廷は、都からみて北東の方角にすむ夷を恐れたのです。
その恐れが、平安時代になると中国の思想と結びつき、
やがて、災いをもたらす鬼が来る方角=鬼門=北東、と信じられるようになっていったのでしょう。

 

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