前回は「古代の大地震と1000年に一度の大地動乱」ということで、古代の災害をテーマにしていました。
特に平安時代前期に発生した貞観地震に焦点を当て、その貞観地震と3.11東日本大震災、この2つの巨大地震の奇妙な一致について説明しました。
貞観年間は様々な災害がおこり、大地動乱期といわれているのですが、なんとこの時期には、世界最古の隕石が日本に落ちていたのです。
今回は、巨大地震をはじめ様々な災害に見舞われた激動の貞観年間とはどのような時代だったのか、そして激動の時代を告げるがごとく日本に飛来した世界最古の隕石について迫っていきましょう。
仏教のもたらした安全神話が完全に崩壊した貞観年間
869年に発生した貞観地震。東日本大震災とも類似点が多いこの大地震は、大地だけでなく当時の平安社会をも揺るがしました。
859年から877年までつづいた貞観年間は、政治的・社会的にもさまざまな変革が起こった激動の時代だったのです。
この頃は、空海や最澄が遣唐使として大陸から仏教などの最先端文化を日本に持ち帰り、「弘仁・貞観文化」と呼ばれる仏教文化が平安京に花開いた時代でした。
奈良から遷都して65年、都も京都の地にすっかり根付いていました。仏教の教えも広がりをみせ、貴族たちは安定した文化を享受していたのです。
しかし、仏教によってもたらされた安全神話を完全に崩壊させたのが、東北を襲った貞観地震でした。
この大地震が発生する8年前、貞観3年に福岡県直方(のおがた)市に隕石が落下しました。
これが世界最古の隕石とされる「直方隕石(のおがたいんせき)」です。
福岡に落下した世界最古の「落下目撃隕石」
世界最古の隕石とは、「落下目撃された世界最古の隕石」ということです。
この隕石は、貞観3年4月7日の夜に落下が目撃されました。当時は隕石ではなく、「飛石」と呼ばれていました。
ちなみにこの「直方隕石」が世界最古の落下目撃隕石として正式に認められる以前は、1492年にフランスに落下したエンシスハイム隕石が最古のものとされていました。「直方隕石」はなんと約600年も記録を更新してしまったのです。
貞観3年の夜、天から降ってきた光の玉が辺り一帯を明るく照らしました。光の玉は現在の須賀神社境内に落下。翌日に土中から焼け焦げた石が発見されました。落下点の地面は深くえぐれていたそうです。
この隕石は桐箱に大切に保管され、須賀神社に納められました。そして当時の発見の様子を伝える「飛石伝説」とともに現在まで伝承されてきたのです。
「直方隕石」は、いまも須賀神社で大切に保管され、5年に一度、神幸大祭の際に一般公開されています。次回は2021年に公開が予定されています。
一つの隕石が激動の時代の幕開けを告げた
流星に願い事をすると願いが叶う、という迷信があるとおり、現代では流星は幸運の印になっています。
しかし、流星を不吉なものとして扱う伝承が世界中に残されています。かつては流星は凶兆の証、つまり良くないことが起こる前兆と信じられていたようです。
「直方隕石」の落下は、まさしく不幸が起こる前兆現象になりました。
直方隕石落下の翌年、貞観4年には近畿地方一帯で疫病が流行します。
さらにその一年後には富山や新潟で大規模な地震も発生。その翌年には、富士山が大噴火を起こしました。
この富士山大噴火で流れ出た溶岩で麓一帯はおおわれ、そこがのちの青木ヶ原樹海となりました。
このように、大きな災害が立て続けに人々を襲ったのです。
不運はさらに続きます。
政治が大きく変わった「応天門の変」
富士山大噴火から2年後の貞観8年、平安京の応天門が何者かによって放火され、大炎上するという事件が発生します。
この応天門の放火事件がきっかけで、朝廷内の権力争いが一気に激化、ずっと天皇家に仕えてきた名門氏族・大伴氏が藤原氏に追い落とされてしまったのです。
大伴氏を朝廷から追放した藤原氏のトップ・藤原良房(ふじわらのよしふさ)は、天皇を補佐する摂政の座につきました。
応天門の炎上に端を発するこの政変を、「応天門の変」といいます。
ここから藤原氏が栄華を誇り、政権を独占するようになっていくのです。藤原氏はその後1000年もの長きにわたって朝廷に君臨することになります。
おさまらない自然災害
まだまだ災害は続きます。
「応天門の変」が起こった翌年、貞観9年には、九州の阿蘇山も大噴火を起こします。
その1年後、今度は兵庫と京都で地震が頻発。京都では20回を超える地震が発生しました。
その翌年の貞観11年、津波により甚大な被害がもたらされた貞観地震が発生します。
この年は、熊本や奈良でも地震が群発したようです。
さらに貞観地震から数年内に山形と秋田にまたがる鳥海山(ちょうかいさん)と、鹿児島の開聞岳(かいもんだけ)があいついで噴火しています。
ここまで災害が続くと、神も仏もあったもんじゃないという感じですね。
当時の人々は、この異常な状況にさぞや畏れを抱いたことでしょう。
この異常事態を体験して、当時の権力者たちは、新しく定着していた仏教よりも、日本古来からの神道に頼る気持ちが強くなっていったともいわれています。
アニミズムから派生した神道のほうが、自然や怨霊を畏怖する思想的要素が色濃くあります。大自然が圧倒的な力で人間に対して猛威をふるう、そんな当時の絶望的な状況に合致していたのでしょう。
人間はちっぽけな存在です。大自然の猛威にさらされても、それが鎮まるように、ただただ祈るほかありませんでした。
人智がおよばない圧倒的なエネルギーの前で、当時の人々は無力さを味わわされ、忘れかけていた自然の恐ろしさを強烈に思い出したのかもしれません。
「祇園祭」もこのときはじまった
京都の夏の風物詩として有名な祇園祭。7月1日から1ヶ月間も行われるこの豪壮かつ華麗なお祭りは、明治時代まで「祇園御霊会(ごりょうえ)」と呼ばれていました。
朝廷によって初めてこの「御霊会」が神泉苑(しんせんえん)で開催されたのは、貞観5年のことです。相次ぐ天災や疫病によって、おびただしい数の犠牲者がでていました。その怨霊を鎮めるために行われたのが「御霊会」でした。
貞観地震が発生した貞観11年には祇園で御霊会が行われました。
やがてこの祭りに京都の一般民衆も主体的に加わるようになりました。これが現在まで1100年以上にわたって受け継がれてきた祇園祭です。
祇園祭のルーツは激動の貞観年間にあったのです。
菅原道真も経験した貞観年間の大地震
学問の神様として有名な菅原道真(すがわらのみちざね)も、この激動の貞観期を生き抜いた人物でした。
貞観地震の翌年貞観12年に菅原道真は官吏試験を受けています。道真が受けたその高等文官試験には、「地震についての論文問題」も出題されました。地震について考えを論ぜよ、というわけです。
朝廷が地震災害への対策や解決案を早急に求めていたことがよくうかがえますね。
大きな時代のうねりの中で……
さて、以下に貞観年間に起きた主な災害をまとめました。
貞観元年(859年)
貞観 3年 「直方隕石」が福岡に落下
貞観 4年 近畿で疫病が多発
貞観 5年 富山・新潟で地震
同年、神泉苑で初めての御霊会が開催
貞観 6年 富士山が大噴火
貞観 8年 応天門の変
貞観 9年 阿蘇山が噴火
貞観10年 岡山、京都で地震が多発
貞観11年 貞観地震、東北地方沿岸部を大津波が襲う
同年、祇園で御霊会が開催
貞観13年 鳥海山噴火
貞観16年 開聞岳噴火
当時の日本列島が、本当に休む間もなく、さまざまな自然災害に見舞われたことがよくわかりますね。
隕石の落下から幕をあけた貞観時代は、大地の変動期であり、それに呼応するかのように社会情勢も大きく揺らいだ激動の時代でした。
そして現在、日本列島は再び1000年に一度の大地変動期にあります。
貞観時代に生きた人々と同じように、わたしたちもまた激動に身を置いています。
人智の及ばぬ大きなうねりの中にいて、自然災害や疫病、社会変革……さまざまな異常事態がおこる激動の時代を、現在進行形で目撃しているのです。