ついに新時代「令和」がはじまりますね。
「令和」は響きもよく、美しさと気品をかね備えたとてもよい元号だとおもいます。
新元号「令和」は、史上初めて日本の古典を典拠とした元号としても話題になりました。
元号はこれまで、漢籍(中国の古典)を典拠にしてきました。
日本の古典を典拠にしたのは、日本で元号が制定されてから1400年の歴史のなかで初めてのことなのです。
安倍総理によると、「令和」には
人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ。
梅の花のように、日本人が明日への希望を咲かせる国でありますように。
という願いが込められているといいます。
『万葉集』が出典ということもあって、日本人の古代への関心もぐっと高まりましたね。
今回は、そんな新元号「令和」の典拠とされた『万葉集』をひも解き、新元号に秘められた真の意味を解説していきましょう。
まさか出典が『万葉集』になるとは……
新元号の出典については、政府が日本の古典など国書を典拠とする案もあると発表していました。
わざわざ政府が日本古典を由来とする可能性に言及するわけですから、ほぼ日本古典から新元号が決められるのでは、と予想した人も多かったようですね。
新元号の発表前に出典として有力視されていた日本古典の国書には、よく知られている『日本書紀』をはじめ、マニアックなものだと奈良時代に編纂された日本最古の漢詩集でもある『懐風藻(かいふうそう)』や、平安時代にまとめられた勅撰漢詩文集である『経国集(けいこくしゅう)』などが候補として予想されていました。
しかし『万葉集』と予想した人はどれほどいるでしょうか。古典の知識がある人は逆に予想できなかったのではないでしょうか。
というのも、『万葉集』は漢語ではなく万葉仮名で書かれているという常識があるからです。
元号は基本的に意味がある漢字二文字です。当たり前ですが、出典先は漢字で書かれたものでなければなりません。
ところが『万葉集』に使われている万葉仮名は、一見漢字ですが、大和言葉の音を表現するために漢字を拝借した仮名文字で、使われている漢字自体が表わす意味はほとんど無視されています。
この『万葉集』だけでなく、じつは『古事記』も万葉仮名で書かれています。
上にあげた『日本書紀』や『懐風藻』や『経国集』は、漢語で書かれています。
漢字二文字で表わす元号の出典としてふさわしいのはやはり漢語で書かれた書物なのです。
だからちょっと知識のある人は、万葉仮名で書かれている『万葉集』は新元号の出典としてはあり得ないだろう、と予想してしまったようです。
ところが新元号「令和」の出典は『万葉集』でした。
典拠となったのは『万葉集』の梅花謌卅二首并序(『万葉集』巻五、梅花の歌三十二首并せて序)
つまり、『万葉集』五巻目に掲載されている三十二首の梅の花の歌、その序文だったのです。
『万葉集』の和歌は万葉仮名で書かれていましたが、この「梅花の歌」の序文は漢詩で書かれていました。
新元号「令和」はそこからとられた漢字二文字だったのです。
令和の典拠となった「梅花の歌」の序文
〈『万葉集』巻五、梅花の歌三十二首并せて序〉から「令和」の由来となった箇所を引用してみましょう。
原文:初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香
書き下し文:初春の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(かぜやわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす
意味:季節は初春のよい月です。大気はやわらかく風も穏やかになりました。梅の花は鏡の前に座る白粉(おしろい)をまとった美女のように美しく咲いています。蘭は、身を飾る衣にしみこんだ香ように、よい薫りをあたりにただよわせています。
「令月」の月は空のお月様の月ではなく、暦の月のことです。令は「令嬢」などと使われるように、良いという意味があります。「令月」で「何かをはじめるのにとてもよい月」というような意味になります。
「和」は、平和、なごやかという意味があります。
すなわち「令和」からは「何かをはじめるのにとてもよい、なごやかな時」というような意味を読み取ることができます。
さらに、安倍総理は上にあげたように
人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ。
という意味もあると発表しています。
日本が誇るべき古典『万葉集』とはどんなもの?
新元号「令和」の典拠となった『万葉集』は、大伴家持(おおとものやかもち)によって編纂された現存する最古の歌集です。成立は奈良時代の783年(延暦二年)頃だとされています。
全20巻からなり、4536首の歌が収められています。
収録されている歌の作者は、天皇や皇族、貴族はもちろん、農民などの庶民や九州の防備のために諸国から徴発された防人まで、幅広い階層の人々がいます。
そこに身分による差別はありません。
詠まれている歌はだいたい次の三つに分類されます。
一つは相聞(そうもん)、これは身近なひとへのおもいを詠んだ歌です。
二つ目が挽歌(ばんか)、これは誰かの死を悼んで詠まれた歌ですね。
三つ目が雑歌で、宮廷の祭祀などで詠まれた歌です。
万葉の歌人たちは、自然の情景とあわせて、さまざまな感情を和歌に詠み込んでいったのです。
万葉人は自分の素直な感情を和歌にたくして表現しています。だからなのでしょう、現代の私たちの心に響く素朴で美しい名歌が『万葉集』には数多く残されています。
過去記事;『万葉集』について
和歌のはじまりは『古事記』?
『万葉集』は最古の歌集です。
では『万葉集』にはじめて登場する歌人、つまり一番はじめに掲載されている作者は誰かご存知ですか。
それは雄略天皇です。
籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも
意味:美しい籠を持ち、美しい箆(へら)を手に、この丘で菜を摘む若い娘よ。あなたはどこの家の娘なのだ? 名前はなんというのだ? この大和の国は、すべて私が治めているのだ。私の方から名乗ろうか、家柄も名前も。
雄略天皇が丘で見かけた若い娘に声をかけたときの情景を詠んだ歌です。簡単にいうとナンパの歌ということになりますが。これが『万葉集』の巻一の最初に登場する和歌です。
ということは、この雄略天皇の歌が日本で最初の和歌になるのでしょうか。
じつは違うのです。
日本で最初の和歌は、
八雲立(やくもた)つ 出雲八重垣(やくもやえがき) 妻(つま)ごみに 八重垣(やえがき)作る その八重垣を
意味:八雲立つ出雲国を取り巻いている幾重もの雲のように、愛おしい妻を籠らせるために、屋敷の周りに幾重にも囲いをつくる、その八重の囲いを。
という歌です。
この作者は須佐之男命(すさのおのみこと)で、『古事記』に登場する歌です。
神話世界のお話ではありますが、この須佐之男命の歌が日本で最初の和歌ということになっています。
過去記事:『古事記』と『日本書紀』について
梅花の宴とは
すこし脱線してしまいましたね。
話を「令和」の由来になった梅花の宴にもどしましょう。
〈『万葉集』巻五 梅花の歌三十二首并せて序〉の
初春の令月にして、気淑く風和ぐ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす
の作者はだれなのでしょうか。
はっきりとわかっていませんが作者として有力視されているのは山上憶良(やまのうえのおくら)だといわれています。山上憶良は奈良時代に活躍した貴族で、代表的な万葉歌人の一人です。
梅花の宴は、当時太宰府に赴任していた大伴旅人の邸宅で催された宴です。その時代にはまだめずらしかった中国大陸からの輸入品である梅の木を愛でながら、その花を題材に短歌を詠もうという趣向の宴でした。参加者は九州各地の国守など三十二人で、その中に山上憶良がおり、彼が、「この庭の美しい梅を歌に詠もう」と序を結んだのです。時は天平二年正月十三日のことでした。
当時、太宰府は中国大陸や朝鮮半島との窓口でした。最先端の文化がいち早く流入する地だったのです。梅という当時はまだ珍しかった植物もそのひとつでした。
山上憶良は漢文の教養を活かし、1300年後に「令和」という元号の由来となる美しい序文を書いたのです。
たしかにこの序文は、漢文の素養を感じさせる美しく流麗な文章に仕上がっています。
しかしまさか千年以上も後の時代になって自分の書いた文章が元号の典拠になるなんて、山上憶良は考えもしなかったでしょうね。
大伴旅人と山上憶良の交流と筑紫歌壇
山上憶良は遣唐使でした。唐に渡り、最先端の学問や仏教を学び帰国、筑前国守に任ぜられました。
かたや大伴氏は神話時代から天皇に仕える家系です。軍事的なこと、主に武門をつかさどる家でしたが、歌などにも優れ、文武両道な名門中の名門の家系でした。そんな大伴家に生まれた大伴旅人も文武に優れた優秀な人物だったようです。
大伴旅人が九州の太宰府に赴任したときに山上憶良と出会います。
文化の中心地だった奈良の都からは遠く離れた九州の地ではありましたが、文武ともに優秀な大伴旅人と、遣唐使で最先端の文化と学問を吸収してきた才気溢れる山上憶良の出会いは文化的にも大きな意義をもたらします。
大伴旅人と山上憶良が中心となり、ほかの九州各地の国守たちも巻き込み、彼らは文化的な交流をもち、刺激し合って歌をどんどんつくりました。
彼らの交流は、都から遠くはなれた九州の地で花開き、やがて「筑紫歌壇」と呼ばれるほどの文化を形成していくことになります。
「令和」の由来となった梅花の宴も、そんな筑紫歌壇の交流の一コマだったのです。
「令和」はどんな時代になるのか
「令和」はいままでの元号と比べるとかなり異例の元号になっています。
一番の違いはなんといっても、日本の古典、国書が典拠になっているということです。いままでは中国の古典が元号の出典になっていました。
もう一つ「令和」が異例な理由は、そこに込められている意味です。
いままでの元号にはどのような意味が込められているのか、それを知れば「令和」の異質さがわかるとおもいます。
明治時代以降の元号の由来を解説していきましょう。
明治という元号の出典は、中国古典の五経の一つ『易経』です。
そこに書かれている
聖人南面して天下を聴き、明に嚮ひて治む
という言葉が明治の由来になっています。
「聖人が北極星のように顔を南に向け、天下がどうなっているのかじっと耳をすませば、世界は明るい方向に向かって治まる」
という意味があります。
大正の出典も明治と同じ『易経』です。
大亨は以って正天の道なり
が大正の由来で、意味は
「天が民の言葉を喜んで受け取り、政が正しく行われる」
というものです。
昭和は五経の一つである『書経』に典拠があります。
百姓昭明・協和万邦
が昭和の由来です。
「国民が平和に暮らせるように、世界が仲良く、そして繁栄するように」
という願いが込められています。
平成の出典は司馬遷の『史記』です。
内平かに外成る
それともう一つ『書経』に書かれている
地平かに天成る
という二つの典拠があります。
「内外、天地、すべてにおいて平和が達成されるように」
という願いが込められています。
明治から平成、さらに昔に元号をさかのぼって見てみても、元号というものには国や世界がどういう状態になってほしいのか、という願いが込められることが多いようです。
明治だと、天下が明るく治まるように、という意味だし、
大正は、政治が正しく行われるように、
昭和は、人々が平和に、世界が仲良く繁栄するように、
平成は、とにかく平和が達成される世の中になるように、という意味があります。
格言のような言葉が出典になっており、込められている願いも、正しい世の中になって欲しい、というどこかスケールの大きなものがあります。
しかし、令和はどうでしょうか。
出典は、庭で梅の花を見ながら歌を詠みましょう、という宴の挨拶文のようなものです。
込められている意味も、
人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ。
という文化的で、しなやかさやゆるさも感じさせるものです。
しかしこのように文化的に満たされるところから本当の平和は作られていくのです。
大伴家持や山上憶良たちが梅の花を愛でて歌を詠みました。
彼らの姿に心の豊かさを感じませんか。
物質的な豊かさをはるかに超える精神的な豊かさ、価値のある文化が日本にはあるのです。
令和時代は、人工知能、ロボット、宇宙開発、仮想現実……さまざまな分野でますますテクノロジーが進歩することでしょう。
人間の心に豊かさがないと、人間は自分たちの生み出したテクノロジーの奴隷になってしまいます。
すでに私たち人類が作り出した社会システムの奴隷になっています。
なぜ毎朝同じ時間に満員電車に揺られて仕事に行くのか。なぜその仕事をしているのか。なぜ、なんのためにお金を稼いでいるのか……。
あまり深く考えること無く、それが常識だから、みんなやっていることだからとその社会システムに従っているのです。
今以上にテクノロジーが発展する令和という時代は、私たち人類が生き方を見直す時代になるのではないでしょうか。
私たち人類はこれからどう生きるべきなのか。
そのヒントが「令和」の由来にあるようにおもえます。
令和時代に、私たち日本人は心の豊かさを見つけられるでしょうか。
ダライ・ラマ法王日本代表事務所が、新元号「令和」の発表を受けてこんなメッセージを発信しました。
「(令和は)とても良い言葉なんです。新しい元号が決まった日本でも、未来に向けた、たくさんの希望が生まれますように」
ダライ・ラマ法王日本代表事務所が、「令和」についてなぜわざわざこのようなメッセージを出したのか。
じつは、チベット語で「レイワ」は「希望」を意味する言葉らしいのです。
「令和」に込められているのは美しい意味だけではありません。
はからずも、すばらしい言霊(ことだま)も備わっていたのですね。希望という言霊が――
2019年5月1日、新しい時代「令和」が始まります。
私たちに心の豊かさがあれば、たくさんの希望にあふれた未来への扉を開くことができるでしょう。